Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

汚辱にまみれた人々の生

2012-12-02 18:01:45 | 日記

★ 私はまた登場人物たちが世に埋もれた者であることを望んだ。彼らが如何なるきらめきによっても前もって素地を与えられていない者たちであり、確立し認められた如何なる偉大さ――血統、財産、聖性、英雄性、或いは才能といった偉大さを一切付与されていない者たちであること。何の痕跡も残さずに消え去って行くことを運命づけられた他の無数の人々に属する者たちであること。彼らの不幸、パッション、その愛や憎悪の中に、ふつうなら語るに値すると判断されるものと照らし合わすと、ぱっとしないありきたりのものが存在すること。とはいえ、それらの生は或る種の熾烈さに貫かれていること。彼らに生彩を添えるのが、悪意、卑劣さ、下劣さ、頑迷さ、不運における暴力、エネルギー、過剰であり、そうしたものが彼らの周囲の目には、その周囲の凡庸さに応じて、彼らに一種の恐るべき、あるいは哀れをさそう偉大さを付与していること。私は、それ自体極めて矮小で見分けるのに難いものであればあるほど大きなものとなっていくエネルギーを付与された、こうした類の量子群を捜そうと出発したのである。

★ あたかも実在しなかったかのような生、それをただ無化させ、或いは少なくとも消し去ろうとしか望んでいなかった権力との軋む衝突からしか生き延びることのできない生、幾つもの偶然の効果によってのみ私たちのところに届けられた生、ここに私がその幾つかの残留物を集めてみたいと望んだ汚辱に塗れた生、がある。

★ しかし、文学はそのシステムにおいて特異な場所を占める。日常的生をその下層に向けて探査することに集中し、その限界を超え、隠匿された秘密を容赦なく或いは巧妙に暴き出し、規則やコードをずらし、明かし得ぬものを語らせることに熱中しながら、文学は自ら法の外に出て行こうとし、或いは少なくとも、自らに醜聞と侵犯或いは反抗を引き受けようとするだろう。すなわち、他の如何なる形式の言語活動にもまして、文学は《汚辱》のディスクールであり続ける。すなわち、もっとも語り難きもの――もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも苛責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。(…)文学のそうした特異な位置が、西欧において、言説のエコノミーと真理を巡る駆け引きを貫いているある権力装置の効果であるということは忘れてはならない。

<ミシェル・フーコー“恥辱に塗れた人々の生”― 『フーコー・コレクション6』(ちくま学芸文庫2006)>







石原慎太郎の魅力

2012-12-02 12:00:24 | 日記


☆ hisashikun @F22raptormiyako 14時間
いったい何様のつもりか‼“@yoyoshimata: ひどい発言だと思います。“@t_shicho: 石原慎太郎氏演説@青森市。「私は青森に縁がある。今でも後援会があるし、秘書、運転手の3人が津軽出身。3人だと津軽弁で話している。津軽弁は美しい。皆さん、卑下することはない」


☆ Kiichiro Yanashita @kiichiro 14時間
あの、これは本当に、心から知りたいんですが、石原慎太郎の魅力ってどこにあるんですか? あなたはなぜ慎太郎を支持してるんですか? 慎太郎はまちがいなくあなたのことをバカにしてますよ?


☆ Kiichiro Yanashita @kiichiro 13時間
これが最大公約数的意見らしい。つまり他人を無根拠に馬鹿にする人に、なんの理由もなく感情移入できるということ? なんの理由もなく自己評価が限りなく高い人ならそうなるのか RT @Pynchoon: 支持している人は「バカにされてる」中に自分は入らないと思ってるからではないでしょうか。何故、そんな暢気なことを信じられるか? それはその人が普段から周りをバカにしている、言い換えれば、そうすることによってしか自分を保てない人達だからでは。


(以上引用)


もちろん、ぼくらをバカにしているのは、石原慎太郎だけではない。