このごろぼくがますますひねくれてきたせいか、“素直そうな文章”ほど、素直に読めない。
というか、そのへんの小学生が“素直に”書いた文章なら、こっちも素直に読むこともできようが、“高橋源一郎”のようなひとが素直な文章を書くのなら、それがパフォーマンスでないはずはない。
もちろん、世の中すべてがもはや“パフォーマンス”であるという考え方もあり、“それ”が上手いか下手かを競うのが、現在の“論壇状況”(そんなものがあるとして)とか日本の文学~思想業界なのかもしれない。
ああ、なんの話をしてるか、“読者”にはわからないだろうから二つのツイートを引用;
☆ 高橋源一郎 @takagengen 3月17日
吉本隆明さんを追悼する「文章」を一つだけ書くことにしました。ぼくよりずっと、それに適している人がいるのだけれど、と思いながら書きました。月曜の朝日新聞の朝刊に載ります。
☆ hazuma
なるほど。読まねば。。RT @a_i_jp: 吉本隆明の追悼文ですね RT @hazuma: なんの話だろう。気になる。RT @brikix: 「『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った」(19日 朝日新聞 高橋源一郎)
posted at 12:24:08
(以上引用)
ぼくは朝日新聞を購読していないので、この高橋源一郎の吉本隆明追悼文を読んでいません。
けれどもそこに、《『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った》と書かれていることを上記で知った。
それで思った。
吉本隆明というひとは、“戦後最大のキャッチフレーズ”作成者ではないか、故に、彼の“弟子”は、糸井重里にしてもこの高橋源一郎にしても、キャッチフレーズが上手なのだ!(笑)
吉本キャッチフレーズでぼくの頭にこびりついているのは、
《自立》
《情況》
《関係の絶対性》
《自己表出》
《対幻想と共同幻想》
《大衆の原像》
などなど
たしかに“現代思想”というのは、日本にかぎらずキャッチフレーズを競っているようなところがあった(《脱構築》とか!)
それは、この社会が“CM化”したことの現れである。
なんかつまんない分析だが、これはかなりの<真実>を突いていると自己満足する。
しかし、ぼくはこういうのに飽きたなぁー;
《『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った》
ぼくも結構コマーシャルソングが好きでしたが、最近は素朴でも実質的な言葉にあこがれます。
ところで、ぼくの風邪はなかなかなおりません。
<追記>
今日(3/20)になって、高橋源一郎が朝日新聞に書いた“吉本隆明追悼文”をネット上で読むことができた。
それを読んでも、読まずに書いた上記のブログを変更する余地はまったくない。
というか、いやになるほど、ぼくの予想通りの文章であったのだ(文章を読む喜びとは、“驚き”にあるのではないのか)
この高橋の文章は、愚劣である。
ここでも高橋源一郎は、《思想の後ろ姿》という“無-意味”(意味が無いことよ)なキャッチフレーズを発するのみである。
(高倉健の映画の見すぎであろうか)
第一、本人が《おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある》と自分のこの追悼文を書くことの不適任を認めているではないか。
《この稿に適さぬ理由は、そこにもある》と言いながら、“それを書いてしまう”というのが、文学的レトリックであると思うほど、高橋源一郎は文学音痴なのである(笑)
いや、“ブンガク”なんか、どーでもいい。
言葉を、まちがって使用する人が、文章を書くことでカネを取る、ということは、どう考えても正しいことではない。
高橋が、“吉本隆明”というひとの<存在>を認識したのは、以下の理由によるという;
《ある時、本に掲載された一枚の 写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった》(引用)
しかし、この世に、自分の子供に《無骨な手つきで絵本を読んであげている》父親というものは、そんなに希少な存在なのだろうか!
あるいは、“吉本隆明ほどの思想家が自分の子供に絵本を読んであげている”写真に感動したなら、それは権威主義の裏返しではないか。
<自分の子供に絵本を読んであげている>父親なら、《大衆の原像》ではなくて、“ただのピープル”のなかに昔からいくらでもいたではないか。
(ぼくの“母親”も読んでくれた)
高橋源一郎のような全共闘崩れには、そんなことも、ワカンナイ。
ぼくがここで言ったことを“証明”するため、高橋の駄文を(引用したくないが)、全文掲載しておく;
<思想の後ろ姿 高橋源一郎>
いま吉本さんについて書くことは、ぼくにはひどく難しい。この国には、「わたしの吉本さん」を持っている人がたくさんいて、この稿を書く、ほんとうの適任者は、その中に いるはずだからだ。吉本さんは長い間にわたって、ほんとうに多くの人たちに、大きな影響を与えてきた。
けれども、その影響の度合いは、どこでどんな風に出会ったかで、違うのかもしれない。半世紀以上も前、詩人としての吉本さんに出会った人は、当時、時代のもっとも先端的な表現であった現代詩の中に、ひとり、ひどく孤独な顔つきをした詩を見つけ驚いただろう。
そして、この人の詩は、孤独な自分に向かって真っ直ぐ語りかけてくるように感じただろう。六十年代は、政治の時代でもあった。その頃、吉本さんの政治思想に出会った人は、社会や革命を論じる思想家たちたくさんいるけれど、彼の思想のことばは、他の人たちと同じような単語を使っているのに、もっと個人的な響きを持っていて、直接、自分のこころの奥底に突き刺さるような思いがして、驚いただろう。あるいは、その頃、現実にさまざまな運動に入りこんでいた若者たちは、思想家や知識人などいっさい信用できないと思っていたのに、この「思想家」だけは、いつの間にか、自分の横にいて、黙って体を動かす人であると気づき、また驚いただろう。それから後も、吉本さんは、さまざまな分野で思索と発言を続けた。そこで出会った人たちは、その分野の他の誰とも違う、彼だけのやり方に驚いただろう。吉本さんは、思想の「後ろ姿」を見せることのできる人だった。
どんな思想も、どんな行動も、ふつうは、その「正面」しか見ることができない。それを見ながら、ぼくたちは、ふと、「立派そうなことをいっているが、実際はどんな人間なんだろう」とか「ほんとうは、ぼくたちのことなんか歯牙にもかけてないんじゃないか」 と疑う。
けれども、吉本さんは、「正面」だけではなく、その思想の「後ろ姿」も見せる ことができた。彼の思想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな 性格、どんな個人的な来歴や規律からやって来るのか、想像できるような気がした。
どんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかけるだけなのに、吉本さんだけは、ぼく たちの前で、ぼくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。ここからは、個人的な、「ぼくの吉本さん」について書きたい。
ぼくもまた、半世紀前に、吉本さんの詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、 吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった。ある時、本に掲載された一枚の 写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった。
その瞬間、ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした 。「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ。
大学を離れ、世間との関係をたって十年後、ぼくは小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。その作品で、ぼくは幸運にもデビューし、また思いがけなく、その吉本さんに批評として取り上げられることで、ぼくは、この世界で認知されることになった。
ぼくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある。
吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ 。
以上です。ご冥福をお祈りします。
(以上引用)
上記の文章を読んだ人が、ぼくが高橋源一郎に個人的な怨念があると思うことを、おそれる。
ぼくは高橋源一郎と個人的な係わりはありません。
ぼくが言いたいのは、あくまで、現在における言葉のインチキな使用が目に余るということです。
もちろん、高橋源一郎の“競馬ボケ”や“離婚ボケ”のような、週刊誌ネタ的な貶しも可能だ。
しかしぼくに重要なのは、そういうことではない。
彼のような売文家の、手馴れた惰性だけの言葉が、率直さを装って発せられる、そのテクニックのいやらしさに、耐えがたいものを感じる。
また、”吉本隆明世代でないひとびと”に、高橋源一郎のようではない吉本世代がいることを伝えたい。
→“フーコー・コレクション”(ちくま学芸文庫)
きみのブログもツイッターも毎日真面目に読んでいる(爆)ゆえ、“それ”も読んだよ。
それから、どっかで、吉本=原発支持発言自体も読んだ。
だが、ここでぼくが言いたかったのは、吉本隆明自身のことじゃない(それなら君の言う通り、とっくに終わっている)
ぼくがイヤなのは、高橋源一郎や糸井重里や渋谷陽一のようなヤカラだ。
ぼくが原発震災以後“ノイローゼ”なのかもしれないが、現在、なんだかんだ言っている“言論人”が、次々に嫌になっている。
ひところ結構好きだった、柄谷、大澤、東とかにも嫌気がさしている。
見田宗介も著作集刊行中なので、まとめて読もうとしていたが、いやになった。
大江健三郎も結局、“思い出のひと”となりにけり。
それにひきかえ“フーコー・コレクション”(ちくま学術文庫)は、すばらしい(笑)
このシリーズ6巻は全部買ってあったのに、ぜんぜん読んでいなかった。
まったく、“晩年”(といっても50代だが)のフーコーがこんなに率直であるのは、驚異的。
“日本人”には、こーいうひとはいない。
なにしろ、講演やインタヴュー、対話が多いこともあって、抜群に“わかりやすい”。
ぼくも生まれてはじめて、フーコーが“わかった”(といってもほんの一部だが)気がした。
おこがましいが、このコレクションの5と6を読むことを君にすすめたい。
“日本人”で好きなのは、中上健次と宮沢賢治のみとなりそー(立岩真也はまだ検討中;笑)
《せんべいとワインは実によく合うことに気がついた。》 いいね(爆)
吉本隆明については僕がブログで頭ごなしに結論を出したじゃないですか?(爆)
《現代思想家の吉本隆明は、原発に対し、人類が積み上げてきた科学技術の成果をここで手放すわけにはいかないといった発言をしたそうだが、つくづく役立たずの言論人だと思う。
彼の思想とは、結局のところ学校のお勉強の延長線上でしかない。だから正しい総論を発言できたとしても、個々の現実や政治状況といった各論にまで考えや意識や経験が及ばないのだ。これは現代思想家としては致命的だ。だから彼は傍流となったのだ。彼が私たちの意識から埒外となったのは、何も年老いただけなのではない事がこれではっきりした。》
最近は死にぞこないの婆さんがおかしな詩集なんかを出していて、それが結構読まれているようですね。
それに比べれば吉本隆明の方が良いような気もしますが、それもどうでもいいことですね(笑)