平成27年3月27日・28日 長い休みの時に行く、恒例の青春18切符を使っての歴史の旅へ行く。
でも、今回の旅では、この青春18切符を失くすという大失態をおかしてしまった。行きは気持ちよく改札をくぐり、バックのポケットの中にちゃんと入れたと思ったが、次の日の朝、どこを探してもそれが見当たらない。バックをひっくり返して中身を全部出して確認してもない。財布を出したときにでも一緒に出して、落としても気づかなかったのか。
仕方ないので、また買って帰ってきた。それでも通常で帰るより安いのである。
では、本題に戻ろう。
今回は、以前行った滋賀県の長浜の石田三成の出生地である石田へ、前回は、バスから石田というバス停を見ただけだったので、もう少し詳しく、ゆっくりと見て来ようと、
そして、そこまで行ったら、余呉湖近くにある、大谷吉継が住んでいたとされている滋賀県小谷町、これは小谷と書いて「おおたに」と読む。一説には、関ヶ原の戦いで、西軍に味方した大谷吉継の痕跡を隠すために、地名を小谷に変え、読み方はそのままにしたと言われている。
その他にも、長浜の北国街道やそれに続く、吉継が住んでいたという八幡神社までの道も北国街道であった。その途中には、姉川の合戦で、柴田勝家の身代わりになって亡くなった毛受(めんじょう)兄弟の墓があったり、面白かった。
では、順を追って書いていこう。
朝6時25分の電車に乗り、14時半頃、長浜に着く。駅前には三成が出世の糸口を掴んだとされる「三椀の茶」の像が建っていた。
そのお茶を出した「観音寺」には、次の日に行くのだが、出生地「石田」と観音寺が思いの外近いのを「石田」に行った時には、分からなかったので、次の日にもう一回同じバスに乗ることになる。
バスに乗り、石田三成の出生地「石田」に行く。
関ヶ原で負けたので、石田家のものは、壊されたり、埋められたりしたらしい。
でも、近年、発掘して、お墓を作って、供養したり、石田会館では、三成の資料が展示してあった。一年に一回、全国の三成ファンが集まるという。
三成の頭蓋骨を発掘し、複製した写真は驚いた。
秀吉に命じられて、全国各地に赴き、検地をしている。そういう能力は高い。
関ヶ原の戦いで、敗走して佐和山城近くの洞穴に隠れていたが、「もうこれまで」と思い、捕まる。打ち首される時に、喉が渇いたので、「白湯を欲しい」と言ったが、水がなかったので、「この柿を食べろ」と出され、「柿は体に悪い」と言って食べなかったとか。武士は死ぬ間際まで命を粗末にしないという信念の賜物か。
また、石田三成は、お茶会の席で、病気が移るのではと、誰もが懸念する、大谷吉継のお茶を、平気で口をつけて飲んだという。その気概は見事なものだ。だから、三成が挙兵するときに、負けると思っていても、最後には味方になって戦ったのかもしれない。
一族郎等、亡くなったのかと思えば、子孫がいて、次男は津軽へ、三男は岡山県の笠岡へ逃げ延びたらしい。三成の娘が寧々の養女となり、津軽藩に嫁いでいる関係からか。
一日目は、そこだけ見て、歩いて、長浜へ、前回も泊まったビジネスホテルに予約を千ちゃんがとってくれたので行く。30分くらいかかった。
前回も食べた、近江牛肉が入っている「のっぺいうどん」を食す。それがとても美味しい。とろみのある汁で、だしがよく効いていた。有名な人がよく食べに来るそうで、安倍首相の写真もあった。
次の日は、朝、長浜の商店街沿いにある、北国街道を歩く。
外れというか、入口には、常夜灯が建っていた。
ここを通って、大谷吉継は敦賀城へ行ったり来たりしたんだな~。それに、信長や秀吉も通っているかもしれない。
その近くに、太閤神社があった。徳川の時代は、太閤秀吉はあまり目立ってはいけない存在で、もともとは長浜城主であったのに、蔑ろにされていた時期もあったそうだ。
秀吉が、小さい頃から可愛がっていた加藤清正に、与えた大きな石があった。
そして、いよいよ余呉湖に行く。駅からは賤ヶ岳が見えた。賤ヶ岳合戦はこの駅の周辺でも行われたと駅に立っていた人が教えてくれえた。
大谷吉継の生家ではないかと言われている「八幡神社」を目指して、行く。余呉駅からバスが出ていると、インターネットでは書いてあったが、実際行ってみると、2時間に一本くらいなので、あてにならない。それで、天気が良いので、サイクリングで行くことにする。これも北国街道を北に、30分くらいの道のりを、せっせっと漕いで、行く。
途中、偶然にも、さっき書いた、「姉川の合戦」での舞台になったところを通った。
大谷吉継の生家があったのではないかと言われている「八幡神社」に、いろいろな人に聞きながらやっと到着。何度も火事にあい、資料は全く残ってないということらしい。たまたま清掃日で、そこを掃除していた村の人に聞いた。それに、石垣が立派で、腕のある人が作ったのでは言われているという。
吉継の家は、もともとは浅井の家来で、姉川の合戦で、父や一族を亡くし、家来に連れられて、秀吉に志願したらしい。その仲介役が石田三成だということで、そこで、知り合ったということだ。
もっとゆっくり見たかったが、電車がまた、1時間に1本という少なさなので、12時10分の電車に間に合わせるために、頑張って駅に戻る。
長浜に戻って、石田三成が秀吉と出会った、「観音寺」へ。
そこには、水を汲んだ井戸があったり、秀吉が姉川の合戦で見張りをしたという「横山城」へのハイキングコースがあったりした。大河ドラマ「お江」でも関係があったとか。
そこからバスで、「近江長岡」の駅に行き、15:10発の電車に乗り、22:33上溝駅に着。
スマホで検索して、電車の時刻が瞬時に分かり、帰る時間も計算でき、ほんとすごいものを持って、旅ができる。
一日目 14169歩
二日目 11706歩
いつもながら、切符をなくしたことは残念だが、こうやって無事に帰って来られ、元気に旅ができることに感謝である。
でも、今回の旅では、この青春18切符を失くすという大失態をおかしてしまった。行きは気持ちよく改札をくぐり、バックのポケットの中にちゃんと入れたと思ったが、次の日の朝、どこを探してもそれが見当たらない。バックをひっくり返して中身を全部出して確認してもない。財布を出したときにでも一緒に出して、落としても気づかなかったのか。
仕方ないので、また買って帰ってきた。それでも通常で帰るより安いのである。
では、本題に戻ろう。
今回は、以前行った滋賀県の長浜の石田三成の出生地である石田へ、前回は、バスから石田というバス停を見ただけだったので、もう少し詳しく、ゆっくりと見て来ようと、
そして、そこまで行ったら、余呉湖近くにある、大谷吉継が住んでいたとされている滋賀県小谷町、これは小谷と書いて「おおたに」と読む。一説には、関ヶ原の戦いで、西軍に味方した大谷吉継の痕跡を隠すために、地名を小谷に変え、読み方はそのままにしたと言われている。
その他にも、長浜の北国街道やそれに続く、吉継が住んでいたという八幡神社までの道も北国街道であった。その途中には、姉川の合戦で、柴田勝家の身代わりになって亡くなった毛受(めんじょう)兄弟の墓があったり、面白かった。
では、順を追って書いていこう。
朝6時25分の電車に乗り、14時半頃、長浜に着く。駅前には三成が出世の糸口を掴んだとされる「三椀の茶」の像が建っていた。
そのお茶を出した「観音寺」には、次の日に行くのだが、出生地「石田」と観音寺が思いの外近いのを「石田」に行った時には、分からなかったので、次の日にもう一回同じバスに乗ることになる。
バスに乗り、石田三成の出生地「石田」に行く。
関ヶ原で負けたので、石田家のものは、壊されたり、埋められたりしたらしい。
でも、近年、発掘して、お墓を作って、供養したり、石田会館では、三成の資料が展示してあった。一年に一回、全国の三成ファンが集まるという。
三成の頭蓋骨を発掘し、複製した写真は驚いた。
秀吉に命じられて、全国各地に赴き、検地をしている。そういう能力は高い。
関ヶ原の戦いで、敗走して佐和山城近くの洞穴に隠れていたが、「もうこれまで」と思い、捕まる。打ち首される時に、喉が渇いたので、「白湯を欲しい」と言ったが、水がなかったので、「この柿を食べろ」と出され、「柿は体に悪い」と言って食べなかったとか。武士は死ぬ間際まで命を粗末にしないという信念の賜物か。
また、石田三成は、お茶会の席で、病気が移るのではと、誰もが懸念する、大谷吉継のお茶を、平気で口をつけて飲んだという。その気概は見事なものだ。だから、三成が挙兵するときに、負けると思っていても、最後には味方になって戦ったのかもしれない。
一族郎等、亡くなったのかと思えば、子孫がいて、次男は津軽へ、三男は岡山県の笠岡へ逃げ延びたらしい。三成の娘が寧々の養女となり、津軽藩に嫁いでいる関係からか。
一日目は、そこだけ見て、歩いて、長浜へ、前回も泊まったビジネスホテルに予約を千ちゃんがとってくれたので行く。30分くらいかかった。
前回も食べた、近江牛肉が入っている「のっぺいうどん」を食す。それがとても美味しい。とろみのある汁で、だしがよく効いていた。有名な人がよく食べに来るそうで、安倍首相の写真もあった。
次の日は、朝、長浜の商店街沿いにある、北国街道を歩く。
外れというか、入口には、常夜灯が建っていた。
ここを通って、大谷吉継は敦賀城へ行ったり来たりしたんだな~。それに、信長や秀吉も通っているかもしれない。
その近くに、太閤神社があった。徳川の時代は、太閤秀吉はあまり目立ってはいけない存在で、もともとは長浜城主であったのに、蔑ろにされていた時期もあったそうだ。
秀吉が、小さい頃から可愛がっていた加藤清正に、与えた大きな石があった。
そして、いよいよ余呉湖に行く。駅からは賤ヶ岳が見えた。賤ヶ岳合戦はこの駅の周辺でも行われたと駅に立っていた人が教えてくれえた。
大谷吉継の生家ではないかと言われている「八幡神社」を目指して、行く。余呉駅からバスが出ていると、インターネットでは書いてあったが、実際行ってみると、2時間に一本くらいなので、あてにならない。それで、天気が良いので、サイクリングで行くことにする。これも北国街道を北に、30分くらいの道のりを、せっせっと漕いで、行く。
途中、偶然にも、さっき書いた、「姉川の合戦」での舞台になったところを通った。
大谷吉継の生家があったのではないかと言われている「八幡神社」に、いろいろな人に聞きながらやっと到着。何度も火事にあい、資料は全く残ってないということらしい。たまたま清掃日で、そこを掃除していた村の人に聞いた。それに、石垣が立派で、腕のある人が作ったのでは言われているという。
吉継の家は、もともとは浅井の家来で、姉川の合戦で、父や一族を亡くし、家来に連れられて、秀吉に志願したらしい。その仲介役が石田三成だということで、そこで、知り合ったということだ。
もっとゆっくり見たかったが、電車がまた、1時間に1本という少なさなので、12時10分の電車に間に合わせるために、頑張って駅に戻る。
長浜に戻って、石田三成が秀吉と出会った、「観音寺」へ。
そこには、水を汲んだ井戸があったり、秀吉が姉川の合戦で見張りをしたという「横山城」へのハイキングコースがあったりした。大河ドラマ「お江」でも関係があったとか。
そこからバスで、「近江長岡」の駅に行き、15:10発の電車に乗り、22:33上溝駅に着。
スマホで検索して、電車の時刻が瞬時に分かり、帰る時間も計算でき、ほんとすごいものを持って、旅ができる。
一日目 14169歩
二日目 11706歩
いつもながら、切符をなくしたことは残念だが、こうやって無事に帰って来られ、元気に旅ができることに感謝である。