wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「大谷吉継」の謎を解く

2016-12-04 10:54:14 | その他
平成28年11月27日(日)、恒例の古民家園歴史講座へ行ってきた。
今回は、真田信繁岳父という触れ込みで、「謎多き義将 大谷吉継」の題目で、講演会を聞いてきた。
   

私達が、以前行った、滋賀県の琵琶湖の北に、「小谷」と書いて、「おおたに」と読ませる地名があり、そこは大谷吉継の出生地だという噂を聞いて、訪ねたことがあった。
果たして、今回その地名が出てきて、納得した限りだ。

『兼見卿記』(かねみきょうき)という本によると、お母さんが、「東殿」といって、秀吉の正室「ねね」の側近で、年齢は、天正20年(1592年)に「刑部少輔甘八才」と記述してあるという。

初めて、公に記述として登場したのは、天正5年(1577年)秀吉の馬廻り衆「大谷平馬」と、『武功夜話』にあるらしい。石田三成を補佐し、九州征伐にも行っている。越前敦賀城主になり、小田原征伐の時は、有名な忍城攻めにも参加している。

朝鮮出兵も参加するが、進行性の病気により、奉公職を離れて帰国している。
『兼見卿記』によると、天正18年(1590年)母東殿は、息子の為に、病平癒の祈祷依頼をしている。

文禄3年(1594年)直江兼続宛てに、草津温泉から書状を出し、病の為、花押ではなく、印判を用いるとある。

慶長5年(1600年)7月会津の上杉景勝征伐の為に討伐軍に参加。途中、三成の息子を参加させるために、佐和山城へ行く。その時に、家康討伐の意向を告げられて、迷った挙句に、同調を決意した。

五大老の一人、前田利家が死に、嫡男利長が当主となり、家康暗殺を画策それが発覚し、母を人質に出す。それによって、前田家は家康方になる。

吉継の計略により、前田軍の進軍を1ヶ月遅らせ、関が原に着いたのは、9月22日終わったあとだった。

吉継は、9/3には関が原の西の山に布陣をしいていた。
9月15日午前8時ごろ合戦が始まる。正午頃、小早川秀秋が東軍になびき、大谷隊総崩れ、家臣湯浅五助の介錯により自害。家臣三浦喜太夫により首を埋めた。

新たに知ることもあり、歴史の面白さを知る。

病押して 義理人情に 散る雲雀
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平山優氏講演の「大坂の陣と真田信繁」へ

2016-11-19 17:52:26 | その他
平成28年11月19日(土)小雨降る寒い日、大野北公民館主催の「歴史講座」へ行ってきた。
私が歴史好きということを知っている友人が教えてきてくれたもので、1時間半がとっても短く感じられるほど、面白い内容だった。Nさん、ありがとう。

「大坂の陣と真田信繁」という題目で、NHK大河ドラマ時代考証・歴史学者の平山優さんが話してくれた。

大河ドラマ「真田丸」の撮影が終わり、10月下旬に打ち上げがあり、白金で、ほぼ全員参加で、朝まで飲んでいたという話から始まり、九度山に行った経緯から、九度山での暮らし、大阪冬の陣が起こったいきさつ、冬の陣、夏の陣と、1時間半ずっと話してくださった。
       

逸話的に頭に残ったことは、
第2次上田合戦の秀忠は初陣  だった。海千山千の昌幸との格の違いを感じる。

上田城は、夏の観光人数が 90万人を超え、100万人に到達しそうだということ。
 ぜひ足を運んでくれとのこと。

・上田城は、徳川方に壊されて、何一つ真田のものは残っていない。信之が統治するときには、本  丸は畑になっていたと資料に残っていたとか。

昌幸が第2次上田合戦で 勝利したのは、砥石山城を信之が攻め、上田城に逃げ込んだと見せかけて、虚空蔵  山(こくぞうやま)(かいこ山)から徳川の背後を狙って攻めたからだとか。

・昌幸は、はじめの方では、すぐに戻れると思っていた。家康はそんな気持ちはさらさ らない。手紙が40通残っているが、その内容は、早く戻せ、戻りたい、金がない、 金よこせの4種類だそうだ。

・何で九度山というかは、麓に空海の母が 住む寺があり、そこに空海が9度会いに来たことからだという。

・秀吉を弔う大仏殿を築こうとした秀頼が、方広寺の鐘に「国家安康」の文字を入れたことに腹を立てたこと  が合戦のきっかけと言われているが、怒ったのは当たり前のことで、目前で人の名前 を呼ぶことは失礼なことで、諱(忌名)(いみな)ということもあり、極めて慎重に 扱わなければいけないことであったとか。

片桐且元は、徳川とのパ イプ役であった。秀頼は、内通していると疑い、排斥させる。それは徳川との断絶  を意味することになる。おぼっちゃまの秀頼にはそこまで読めなかったか。

・赤揃えの鎧を着ている徳川方の武将井伊直孝をみて、幸村に「佐和山の物語も見たい ものだな」と言わしめていた。三谷幸喜のエール交換なのか。

心眼寺三光神社と真田丸近 くの仏閣。

・大阪は奈良時代は海で、半島が出ていて、そこに天王寺があった。

・前田の殿様も初陣で、挑発に乗り出陣してしまった。

・冬の陣の和睦は、徳川方は兵糧の限界、豊臣方は火薬が底についたから。

・堀を埋めたのは、双方の合意で、浪人対策で堀を埋めた。秀頼は、一時金を出して、浪人たちを国へ帰  らせたかったが、その金で、武器を買ったり、はたまた、堀を掘り返したりする輩  が出たりと、不審な動きが重なり、また大阪へ浪人たちが集まってきてしまい、夏  の陣へと向かってしまう。

・夏の陣では、家康は、若い二人の息子に、合戦を見学させるために、昼頃からの始め させようとした。本来は朝5時~6時頃には始めるものを。それでしびれを切らした
 合戦が始まるも、双方経験がないものだから、突撃されて、味方の陣地に逃げ込み、 臆病風が伝染した。2度も攻められ、馬印も破かれ、絶望のあまり腹を切ろうとした 家康、あと一度突入したら首が取れたであろうとこまでいったが、そこで2つのこと が起こった。大野治長が今がチャンスと秀頼を呼びに千成瓢箪(せんなりひょうたん)を抱え て大阪城に戻ったのを、戦場から逃げて帰ってきたと思われたこと。もう一つは、  大阪城から火の手が上がったこと。誰が裏切り者なのかは、大河を見てくれとのこ  と。

・秀頼は出陣しようとはしていたが、やはり経験がないので、どこで出陣していいか判 断ができなかった。

幸村の首 を取った武将は、身なりの良い武将とやり合わせをして、誰だか分からず    に、もぎくび(兜ごと取ること)にしたそうだ。陣地に持ち帰り、真田に使えた武将 から教えられ、たまげたそうだ。何とその人は、武田の遺臣でもあり、因縁を感じ  た。

千姫を送って、助命したが、 かなわず。

・秀吉恩顧の武将たち、福島正則、黒田長政らは、江戸に幽閉されていたと言ってい  た。へえー、そうなんだ。

あと少し 夢が叶った 赤椿
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漢字三千年 ~漢字の歴史と美~ に行ってきた。

2016-10-23 16:04:41 | その他
平成28年10月23日(日) 漢字のことで、面白そうな展示会があると聞いて、東京富士美術館へ行ってきた。
漢字の成り立ちが年表になっていた。

漢字は、三千年前の中国の倉頡(そうけつ)という人が作ったとされ、動物の足跡を形にしたという。余りにもよく特徴を見られるので、この人には目が四つあったと逸話が残っているほどである。
魏(商)の国で使われ、それが滅んだ後も、周で使われていったことで、長年表意文字として、東アジアの国々に伝わっていったとあった。
最初は、亀の甲羅に書き、それを火にくべて、祈祷師がヒビの様子を口で伝えて、占ったことから甲骨文字が漢字の初めで、青銅器に書かれた青銅器文字、石に書かれた石器文字と、だんだん漢字が形になっていった。
            

漢字の成り立ちがそこかしこに掲げてあったが、特に、「友」は二つの手を合わせた形から、こういう漢字になっていたことがわかったのが、印象的だった。
また、「取」という漢字は、中国では昔、捕虜は耳を剥ぎ取られることからこの漢字が作られたとか。「夢」も王様が呪いをかけられてとある。「幸」も罪人が手錠をかけられた形から罪が軽くて幸せとあった。ちょっと怖い発想から生まれたものが多い感じがする。
        

兵馬俑にも、誰が作ったのかがわかるように、印(漢字)が書いてあったようだ。
  

遣唐使で中国に渡って、現地で亡くなった人(井真成)が埋葬されていて、その墓碑にも漢字で書いてあった。
   

則天武后の金の御札にも漢字がぎっしり書いてあった。
  

また、この東京富士美術館は、お金があるのか、随分有名な絵画(モネ、マネ、ルノアール等々)が展示されてあって、驚いた。

   墓石碑に
      夏草埋れ
         日本人

   雪跡に
      漢字の起こりは
            倉頡さん
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ルーツを探しに

2016-10-16 08:35:11 | その他
平成28年10月9・10日(日・月) 体育の日が月曜日で、三連休の後半の2日間、
福島県相馬市に行ってきた。

義父が亡くなり、義母に名義替えをする手続きで、主人が戸籍謄本を取り寄せた際、福島から北海道に開拓に来て移り住んだという話は聞いていたが、義父の父母の詳しい住所が分かったので、今回、是非とも行ってみたいというので、行ってきた。

それというのも、北海道に移り住んだ時に、このお父様は、自分の敷地に、この生まれ故郷の中村神社の「妙見様」を分社して、神社を建てたという。そして、義母が嫁いだ際には、この父親から「一度本家の神社にお参りに行って来い」と言われ、今回行った「相馬中村神社」に何十年も前に拝みに行ったという。

それでは、順を追って、載せていく。

まずは、朝7時に家を出て、圏央道に乗り、東北道に乗って、郡山市中田町へ。そこが義父の父母が生まれた場所。二人は近所同士で結婚した。
       

近くに、相馬小高神社(そうまおだかじんじゃ)相馬馬追の元祖の神社だそうです。
     

元々は、源頼朝が、藤原三代と戦い、勝ったことで、相馬氏が受け継いだ土地で、この小高神社は相馬氏が建てた神社で、その後、江戸時代に相馬中村神社に移っていったということだ。

いわき市のビジネスホテルで泊をとり、つぎの日に、福島の海岸沿いを北上して、相馬市に入る。その間、事故のあった原子力発電所の付近を通ったが、大震災から5年も経っているけど、まだ「避難区域」が続いていて、高速道路は通っているけど、脇の道には入れないように、鉄杭等が、そこかしこに立っていた。道路には、何箇所にも、放射能の測定値が提示され、実際行ってみないと、こういうことって、知らないし、分からないなと感じた。

そして、妙見様が祀っていある「相馬中村神社」へ。馬追で有名なだけあって、入口には、白馬がいた。
               

帰りは、羽生サービスエリアで休憩、江戸時代の街並みが再現されているという。
   


  父母に
    妙見様の
       影見たり

  秋しぐれ
    中村神社は
        先祖の思い
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小早川秀秋は家康と密約していた

2016-06-26 14:24:19 | その他
平成28年6月26日(日)、梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、
「小早川秀秋 裏切りの真相」という歴史講演会が、古民家園で行われるというので、行ってきた。

徳川家康の確認から豊臣秀吉との関係、小早川秀秋の確認、関ヶ原での東軍西軍の配置等、細かく説明して下さり、その度々に、それに纏わるうんちくを散りばめていて、1時間半がとても短く感じられた講演会でした。

        

まずは、資料を載せておく。

簡単にいうと、小早川秀秋は石田三成を裏切ったと私は思っていたけれど、そうではなく、さんざん秀吉には辛酸を舐められていて、豊臣家憎しと思っていた。秀吉の死後、五大老である家康には旧領・筑前30万石を拝領され、恩義も感じていた。そんな中で、家康と密約し、表向きは西軍でも心の中では、東軍側に汲みすると分かっていた。それに、吉川家も毛利家を動かさないと分かっていたから、家康は関ヶ原の真ん中まで出てこられたんだと納得いった。実際、関ヶ原に行ってみると、何でこの布陣(東軍を挟み撃ちできる)で、西軍が負けるのか不思議に思っていたから。

この小早川秀秋は、政所の兄の子供であり、幼少の頃から、継承者として重宝されたけど、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったが、三成に疎まれ、三成の言によって減封させられたり、散々な目にあう。秀吉・三成憎しと思っていた一人である。

また、まだこの関が原の時は、家康は、5大老の筆頭で、一番家督を多く持っていたけれど、豊臣家の家臣であった。その立場で、上杉征伐をしている途中で、石田三成の反乱を知って、取って返す。

この時、淀君は「石田三成を退治してください」と、家康に手紙を書いたと言われている。だから、あくまでも、この戦いは豊臣家の家来同士の戦いなのである。

小牧長久手の戦いで、家康は勝っていながら、実際は上洛して、秀吉に臣下の礼をとって、苦渋の選択を強いられている。早めに、家督を秀忠に譲って、駿河に隠居しつつ、豊臣家が台頭してこないように、目を光らせて、徳川家の磐石を狙っていて、大阪の陣につながるのである。

徳川260年の流れの中で、小早川秀秋が裏切り者とレッテルを貼られた。歴史は勝者の都合の良い方に作られるのである。
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