平成27年11月22日(日)、俗にいう「いい夫婦の日」に、この住んでいる辺り(相模国)の戦国時代の話を聞けるというので、行ってきた。
城の定義は、「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」なので、俗にいう天守閣を持つ大きい城だけでなく、砦や館・陣なども入るという。
この関東各地には、こういった城が、「382ヶ所」あるというから驚きである。
一般的には、戦国時代は、応仁の乱(1467~1477年)以後を指すが、この関東地方では、15世紀前半からもう始まっているという。
鎌倉公方と上杉氏の対立
幕府・山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏と古河公方の対立
山内・扇谷両上杉氏と古河公方・長尾景春の対立
山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立
最後にぐちゃぐちゃな関係に乗じて、北条早雲が登場
ここまでで、気になった城は、山内上杉氏と古河公方との対立の最前線になった城「五十子(いかご)城」
読み方も面白い。
後は、小田原北条氏が城郭整備を進め、領土を拡大していく。
北条早雲は小田原城を攻略し、三浦氏制圧のために、玉縄城を築く。
氏綱の時代は、三崎城・小机城・江戸城・川越城等を拠点にしている。
氏康の時代には、本城ー支城体制が確立し、上の城らと松山城・伊豆城・津久井城らも支城となる。滝山城は氏照、鉢形城は氏邦がその統治を任され、独立した関係であったらしい。
氏政・氏直の時代には、里見領、佐竹領を除く関東全域に勢力範囲を拡大している。
信玄の小田原城攻め後に滝山城が八王子城に転移され、秀吉との合戦前には小田原城を総構えに整備したり、山中城・足柄城なども構築している。
合戦の準備はしたものの、実際の戦いでは、八王子城は、氏照が主要部隊を率いて、小田原城に行ってしまい、前田氏・上杉氏に攻められ、全滅させられた。堀が有名な山中城でも然りである。
近世以降は1590年の家康入封後は、小田原城と玉縄城のみとなり、一国一城令後は、城持ち大名は小田原藩のみ。
大名領として、六浦・荻野山中に陣屋が置かれ、家康の鷹狩りのために、神奈川御殿・小杉御殿(川崎)・藤沢御殿・中原御殿(平塚)が置かれたとも言っていた。
相模原市内の城館も教えてくれた。
歴史的に、はっきりと証明されるものには、3つの条件があるという。
1、伝承が残っている。
2、資料で登場している。
3、発掘調査で証明できている。
この3つの条件が揃っているものは、この相模原には、「磯部城」しかない。古沢古城の支城として、磯部城がある。
1478年の長尾景春の乱において長尾方の城として、「太田道灌状」に記録があり、
発掘調査によって箱堀が確認されているとのこと。
「当麻城山」には、鎌倉時代の武将当麻太郎の伝承がある。頼朝の弟の範頼の家臣であり、大将が心配なあまり、頼朝館に忍び込み、動向を探ったことによりつかまり、流罪になったという。範頼と一緒に九州まで戦いにも行っているとのこと。
そんな武士がこんな所にも居たんだな~
「淵辺義博居館」あくまでも伝承地である。南北朝時代の武将で足利直義の家臣で、後醍醐天皇の子どもの護良親王の首を討ったと言われている。石巻の地へ逃がしたとされる説と安房国へ逃がしたとされる説がある。
「矢部氏居館」鎌倉時代はじめの横山党矢部氏の館跡と伝えられる。
「津久井城」は現場に行ってくれということで説明は無し。
この辺りは、天領地で旗本が持っていた。古淵駅に鷹狩りのモニュメントがあるので、そのことを聞いてみたら、前田藩の殿様がここに来たという記載が残っていると言っていた。
なかなか地元のことを知るのは面白いことだ。ぜひ、現場に行ってみたい。
城の定義は、「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」なので、俗にいう天守閣を持つ大きい城だけでなく、砦や館・陣なども入るという。
この関東各地には、こういった城が、「382ヶ所」あるというから驚きである。
一般的には、戦国時代は、応仁の乱(1467~1477年)以後を指すが、この関東地方では、15世紀前半からもう始まっているという。
鎌倉公方と上杉氏の対立
幕府・山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏と古河公方の対立
山内・扇谷両上杉氏と古河公方・長尾景春の対立
山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立
最後にぐちゃぐちゃな関係に乗じて、北条早雲が登場
ここまでで、気になった城は、山内上杉氏と古河公方との対立の最前線になった城「五十子(いかご)城」
読み方も面白い。
後は、小田原北条氏が城郭整備を進め、領土を拡大していく。
北条早雲は小田原城を攻略し、三浦氏制圧のために、玉縄城を築く。
氏綱の時代は、三崎城・小机城・江戸城・川越城等を拠点にしている。
氏康の時代には、本城ー支城体制が確立し、上の城らと松山城・伊豆城・津久井城らも支城となる。滝山城は氏照、鉢形城は氏邦がその統治を任され、独立した関係であったらしい。
氏政・氏直の時代には、里見領、佐竹領を除く関東全域に勢力範囲を拡大している。
信玄の小田原城攻め後に滝山城が八王子城に転移され、秀吉との合戦前には小田原城を総構えに整備したり、山中城・足柄城なども構築している。
合戦の準備はしたものの、実際の戦いでは、八王子城は、氏照が主要部隊を率いて、小田原城に行ってしまい、前田氏・上杉氏に攻められ、全滅させられた。堀が有名な山中城でも然りである。
近世以降は1590年の家康入封後は、小田原城と玉縄城のみとなり、一国一城令後は、城持ち大名は小田原藩のみ。
大名領として、六浦・荻野山中に陣屋が置かれ、家康の鷹狩りのために、神奈川御殿・小杉御殿(川崎)・藤沢御殿・中原御殿(平塚)が置かれたとも言っていた。
相模原市内の城館も教えてくれた。
歴史的に、はっきりと証明されるものには、3つの条件があるという。
1、伝承が残っている。
2、資料で登場している。
3、発掘調査で証明できている。
この3つの条件が揃っているものは、この相模原には、「磯部城」しかない。古沢古城の支城として、磯部城がある。
1478年の長尾景春の乱において長尾方の城として、「太田道灌状」に記録があり、
発掘調査によって箱堀が確認されているとのこと。
「当麻城山」には、鎌倉時代の武将当麻太郎の伝承がある。頼朝の弟の範頼の家臣であり、大将が心配なあまり、頼朝館に忍び込み、動向を探ったことによりつかまり、流罪になったという。範頼と一緒に九州まで戦いにも行っているとのこと。
そんな武士がこんな所にも居たんだな~
「淵辺義博居館」あくまでも伝承地である。南北朝時代の武将で足利直義の家臣で、後醍醐天皇の子どもの護良親王の首を討ったと言われている。石巻の地へ逃がしたとされる説と安房国へ逃がしたとされる説がある。
「矢部氏居館」鎌倉時代はじめの横山党矢部氏の館跡と伝えられる。
「津久井城」は現場に行ってくれということで説明は無し。
この辺りは、天領地で旗本が持っていた。古淵駅に鷹狩りのモニュメントがあるので、そのことを聞いてみたら、前田藩の殿様がここに来たという記載が残っていると言っていた。
なかなか地元のことを知るのは面白いことだ。ぜひ、現場に行ってみたい。