wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

ルーツを探しに

2016-10-16 08:35:11 | その他
平成28年10月9・10日(日・月) 体育の日が月曜日で、三連休の後半の2日間、
福島県相馬市に行ってきた。

義父が亡くなり、義母に名義替えをする手続きで、主人が戸籍謄本を取り寄せた際、福島から北海道に開拓に来て移り住んだという話は聞いていたが、義父の父母の詳しい住所が分かったので、今回、是非とも行ってみたいというので、行ってきた。

それというのも、北海道に移り住んだ時に、このお父様は、自分の敷地に、この生まれ故郷の中村神社の「妙見様」を分社して、神社を建てたという。そして、義母が嫁いだ際には、この父親から「一度本家の神社にお参りに行って来い」と言われ、今回行った「相馬中村神社」に何十年も前に拝みに行ったという。

それでは、順を追って、載せていく。

まずは、朝7時に家を出て、圏央道に乗り、東北道に乗って、郡山市中田町へ。そこが義父の父母が生まれた場所。二人は近所同士で結婚した。
       

近くに、相馬小高神社(そうまおだかじんじゃ)相馬馬追の元祖の神社だそうです。
     

元々は、源頼朝が、藤原三代と戦い、勝ったことで、相馬氏が受け継いだ土地で、この小高神社は相馬氏が建てた神社で、その後、江戸時代に相馬中村神社に移っていったということだ。

いわき市のビジネスホテルで泊をとり、つぎの日に、福島の海岸沿いを北上して、相馬市に入る。その間、事故のあった原子力発電所の付近を通ったが、大震災から5年も経っているけど、まだ「避難区域」が続いていて、高速道路は通っているけど、脇の道には入れないように、鉄杭等が、そこかしこに立っていた。道路には、何箇所にも、放射能の測定値が提示され、実際行ってみないと、こういうことって、知らないし、分からないなと感じた。

そして、妙見様が祀っていある「相馬中村神社」へ。馬追で有名なだけあって、入口には、白馬がいた。
               

帰りは、羽生サービスエリアで休憩、江戸時代の街並みが再現されているという。
   


  父母に
    妙見様の
       影見たり

  秋しぐれ
    中村神社は
        先祖の思い
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小早川秀秋は家康と密約していた

2016-06-26 14:24:19 | その他
平成28年6月26日(日)、梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、
「小早川秀秋 裏切りの真相」という歴史講演会が、古民家園で行われるというので、行ってきた。

徳川家康の確認から豊臣秀吉との関係、小早川秀秋の確認、関ヶ原での東軍西軍の配置等、細かく説明して下さり、その度々に、それに纏わるうんちくを散りばめていて、1時間半がとても短く感じられた講演会でした。

        

まずは、資料を載せておく。

簡単にいうと、小早川秀秋は石田三成を裏切ったと私は思っていたけれど、そうではなく、さんざん秀吉には辛酸を舐められていて、豊臣家憎しと思っていた。秀吉の死後、五大老である家康には旧領・筑前30万石を拝領され、恩義も感じていた。そんな中で、家康と密約し、表向きは西軍でも心の中では、東軍側に汲みすると分かっていた。それに、吉川家も毛利家を動かさないと分かっていたから、家康は関ヶ原の真ん中まで出てこられたんだと納得いった。実際、関ヶ原に行ってみると、何でこの布陣(東軍を挟み撃ちできる)で、西軍が負けるのか不思議に思っていたから。

この小早川秀秋は、政所の兄の子供であり、幼少の頃から、継承者として重宝されたけど、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったが、三成に疎まれ、三成の言によって減封させられたり、散々な目にあう。秀吉・三成憎しと思っていた一人である。

また、まだこの関が原の時は、家康は、5大老の筆頭で、一番家督を多く持っていたけれど、豊臣家の家臣であった。その立場で、上杉征伐をしている途中で、石田三成の反乱を知って、取って返す。

この時、淀君は「石田三成を退治してください」と、家康に手紙を書いたと言われている。だから、あくまでも、この戦いは豊臣家の家来同士の戦いなのである。

小牧長久手の戦いで、家康は勝っていながら、実際は上洛して、秀吉に臣下の礼をとって、苦渋の選択を強いられている。早めに、家督を秀忠に譲って、駿河に隠居しつつ、豊臣家が台頭してこないように、目を光らせて、徳川家の磐石を狙っていて、大阪の陣につながるのである。

徳川260年の流れの中で、小早川秀秋が裏切り者とレッテルを貼られた。歴史は勝者の都合の良い方に作られるのである。
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「戦国さがみ いろいろ城物語」へ行ってきた。

2015-11-29 09:27:54 | その他
平成27年11月22日(日)、俗にいう「いい夫婦の日」に、この住んでいる辺り(相模国)の戦国時代の話を聞けるというので、行ってきた。
    

城の定義は、「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」なので、俗にいう天守閣を持つ大きい城だけでなく、砦や館・陣なども入るという。
この関東各地には、こういった城が、「382ヶ所」あるというから驚きである。

一般的には、戦国時代は、応仁の乱(1467~1477年)以後を指すが、この関東地方では、15世紀前半からもう始まっているという。

鎌倉公方と上杉氏の対立
幕府・山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏と古河公方の対立
山内・扇谷両上杉氏と古河公方・長尾景春の対立
山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立
最後にぐちゃぐちゃな関係に乗じて、北条早雲が登場

ここまでで、気になった城は、山内上杉氏と古河公方との対立の最前線になった城「五十子(いかご)城
読み方も面白い。

後は、小田原北条氏が城郭整備を進め、領土を拡大していく。

北条早雲は小田原城を攻略し、三浦氏制圧のために、玉縄城を築く。

氏綱の時代は、三崎城小机城・江戸城・川越城等を拠点にしている。

氏康の時代には、本城ー支城体制が確立し、上の城らと松山城伊豆城・津久井城らも支城となる。滝山城は氏照、鉢形城は氏邦がその統治を任され、独立した関係であったらしい。

氏政・氏直の時代には、里見領、佐竹領を除く関東全域に勢力範囲を拡大している。
信玄の小田原城攻め後に滝山城が八王子城に転移され、秀吉との合戦前には小田原城を総構えに整備したり、山中城足柄城なども構築している。
合戦の準備はしたものの、実際の戦いでは、八王子城は、氏照が主要部隊を率いて、小田原城に行ってしまい、前田氏・上杉氏に攻められ、全滅させられた。堀が有名な山中城でも然りである。

近世以降は1590年の家康入封後は、小田原城と玉縄城のみとなり、一国一城令後は、城持ち大名は小田原藩のみ。
大名領として、六浦・荻野山中に陣屋が置かれ、家康の鷹狩りのために、神奈川御殿・小杉御殿(川崎)・藤沢御殿・中原御殿(平塚)が置かれたとも言っていた。

相模原市内の城館も教えてくれた。
  

歴史的に、はっきりと証明されるものには、3つの条件があるという。
1、伝承が残っている。
2、資料で登場している。
3、発掘調査で証明できている。
この3つの条件が揃っているものは、この相模原には、「磯部城」しかない。古沢古城の支城として、磯部城がある。
1478年の長尾景春の乱において長尾方の城として、「太田道灌状」に記録があり、
発掘調査によって箱堀が確認されているとのこと。

「当麻城山」には、鎌倉時代の武将当麻太郎の伝承がある。頼朝の弟の範頼の家臣であり、大将が心配なあまり、頼朝館に忍び込み、動向を探ったことによりつかまり、流罪になったという。範頼と一緒に九州まで戦いにも行っているとのこと。
そんな武士がこんな所にも居たんだな~

淵辺義博居館」あくまでも伝承地である。南北朝時代の武将で足利直義の家臣で、後醍醐天皇の子どもの護良親王の首を討ったと言われている。石巻の地へ逃がしたとされる説と安房国へ逃がしたとされる説がある。

「矢部氏居館」鎌倉時代はじめの横山党矢部氏の館跡と伝えられる。

「津久井城」は現場に行ってくれということで説明は無し。

この辺りは、天領地で旗本が持っていた。古淵駅に鷹狩りのモニュメントがあるので、そのことを聞いてみたら、前田藩の殿様がここに来たという記載が残っていると言っていた。

なかなか地元のことを知るのは面白いことだ。ぜひ、現場に行ってみたい。
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講演会 「武田家の滅亡に見る良い相続 悪い相続」を聞く

2015-07-20 16:54:47 | その他
平成27年7月20日(海の日)、梅雨が明け、海に行くには絶好な日和、私たち夫婦は、こんな題目の講演会に行った。

会社を経営しているわけではないし、ましてや子どもたちに残す遺産があるわけではないのに、歴史好きな私は、この武田氏の滅亡の真相を知りたくて、申し込んだ。
果たして、期待の裏切らない内容で、私は面白かった。
   


まずは、相模原と信玄の接点を話された。
それは、相模原にある八景(はけ)の棚には「さいかち」という樹?植物?が群生している。それは信玄が三増合戦の戦勝を祝って、植えたもので、また、中腹一帯の横穴には、敗軍の将士の自刃のところだということが、昭和43年にこの地に建てられた碑に書かれていると話してくれた。
ほー、津久井の方で勝ち名乗りを上げたと聞いていたが、景勝と言われているこの地でもこういうことをしていたんだなと感慨深く思った。
 


そして、いよいよ、武田家の滅亡の話に入る。

「戦国屈指の大名武田信玄の功績は、言うまでもないが、あまりに自分に自信があり過ぎ、自分亡き後の課題の認識が甘かったと言わざるおえない」と、講師の真崎正剛氏が熱弁を振るっていた。
なるほど、信玄の遺言を見ても、勝頼をないがしろにするようなものになっていて、真崎氏が言うように、あれじゃあモチベーションが上がらないよなと思った。

信玄の遺言というのはこうだ。

①自分が死んだら、三年間は喪を隠せ  これは有名なことだ。
②勝頼の子信勝を武田家第 28代当主とするが、16歳になるまでは勝頼を「陣代(信勝の代理)」とする。た だし、兜は使ってもよいが、それ以外のものは使ってはならない。有名な「風林火  山」の旗も自分で作れとも。   なんじゃこれ?
 勝頼の妻は、信玄の政略により、昔はまだ友好関係にあった「今は宿敵」織田信長の 養女である。だから信勝は、血のつながりはないが信長を祖父に持つことになる。
③勝頼は武田の諸将を朋輩と思うべきだ。決して家臣などと低く見てはならない。
④弟の信廉は予の影武者を務めよ

どうしてこんな遺言を書いたのか?どうも勝頼のことを嫌っていたのではなく、側室の子だという出生に秘密があるらしい。

勝頼は信玄の4番目の子で、その前の3番目までは、正室三条家の子どもである。

嫡男である義信が家督を継げば、何の問題もなかったのだが、義信は、今川家から嫁をもらっている。桶狭間の戦いで信長が義元を撃ったことで、京に上る近道は東海地方から進みたいと思った信玄は、今川義元の娘である嫁や今川家と親密な関係を持っている義信は、邪魔になると考えたらしい。義信は、30歳にして非業な最期を遂げている。病死か自刃かそれとも殺されたのか分からないということだ。次男は目が見えなくて坊さんになっていて、三男は病死。4番目である勝頼が武田家を継がなければならない状況に追い込まれてしまったということだ。

また勝頼を生んだ側室は、諏訪氏の姫で、諏訪大社の大祝(おおほうり)の一族で、一言で言えば「生き神様の一族」という、えらく由緒あるところから迎えてきた。

また、正式に「武田勝頼」に襲名したのは、信玄が死ぬたった2年前だという。そして、何の官位ももらっていない状態であったという。普通、大名が家督を相続するには、まして、源氏の流れを汲む大大名であるのだから、官位をいただくのは当たり前なのに、信玄はそういう手はずもせずに亡くなっている。可哀相といえば可哀相である。

そんな勝頼だから、自分の存在を示すためには、勝って勝って勝ちまくって、自分を誇示したかったのであろう。1574年には、難攻不落な遠江の高天神城を攻略し、領土を拡大している。
長篠の合戦では、老臣は戦わないことを勧めたが、無理強いしてこういう結果を招いてしまった。信玄が死んで(1573年、信州伊那駒場にて病死)、10年足らずで、武田家が滅亡(1582年3月、甲斐天目山にて勝頼自刃)という悲劇も起きなかったと思う。

ここに、真崎氏がいう「継がせるための教訓・継ぐがわのための教訓」を載せておく。
  
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後北条氏の滅亡の真相

2015-07-04 16:40:26 | その他
平成27年6月21日(日) 小雨降る中、相模川自然の村公園の中にある古民家園で、この辺の領主であった北条氏の滅亡に関する歴史講演会があるというので、千ちゃんとワクワクしながら行って聞いてきた。

室町幕府の後半、関東がぐちゃぐちゃしている折に、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が伊豆を乗っ取り、相模を平定した。(関東は関東管領が貴族化して、守護代が実権を握るようになり、山内上杉や扇谷上杉の対立もある。)、その時には、早雲は各地にお布令を出して、平定に尽くした。相模原の当麻山にも資料が残っていると聞いたことがある。

そんな北条氏が房総半島から相模・伊豆を支配して、平和な時代を築いた。そんな時代から5代氏直で滅びるまでのことを分かりやすく話してくれた。

   


つまり、北条は佐竹と仲が悪く、それを攻めるためには、西側の徳川と仲良くなってないと、安心して、攻めることができない。それで、北条は徳川と同盟を結んだ。また、秀吉は関白になり、2年後には、徳川は秀吉と和議を結んでいる。それに伴って、北条と徳川の同盟は意味を成さなくなり、秀吉に付け入る隙を与えてしまう。

徳川は北条の沼田領有を認めるが、領主の真田氏は沼田を渡さず、家康を離れ秀吉に従い居座った。ところが沼田城代が名胡桃城を攻めてとってしまったことから、秀吉は怒って、小田原攻めになった。小田原評定一夜城が言われたこともこの時代のことがきっかけである。

室町時代から戦国時代、そして江戸時代になるまでは、とかく群雄割拠で分かりづらいところもある。でも、こうやって詳しく知ることができると、歴史がますます面白くなる。
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