wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「戦国さがみ いろいろ城物語」へ行ってきた。

2015-11-29 09:27:54 | その他
平成27年11月22日(日)、俗にいう「いい夫婦の日」に、この住んでいる辺り(相模国)の戦国時代の話を聞けるというので、行ってきた。
    

城の定義は、「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」なので、俗にいう天守閣を持つ大きい城だけでなく、砦や館・陣なども入るという。
この関東各地には、こういった城が、「382ヶ所」あるというから驚きである。

一般的には、戦国時代は、応仁の乱(1467~1477年)以後を指すが、この関東地方では、15世紀前半からもう始まっているという。

鎌倉公方と上杉氏の対立
幕府・山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏と古河公方の対立
山内・扇谷両上杉氏と古河公方・長尾景春の対立
山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立
最後にぐちゃぐちゃな関係に乗じて、北条早雲が登場

ここまでで、気になった城は、山内上杉氏と古河公方との対立の最前線になった城「五十子(いかご)城
読み方も面白い。

後は、小田原北条氏が城郭整備を進め、領土を拡大していく。

北条早雲は小田原城を攻略し、三浦氏制圧のために、玉縄城を築く。

氏綱の時代は、三崎城小机城・江戸城・川越城等を拠点にしている。

氏康の時代には、本城ー支城体制が確立し、上の城らと松山城伊豆城・津久井城らも支城となる。滝山城は氏照、鉢形城は氏邦がその統治を任され、独立した関係であったらしい。

氏政・氏直の時代には、里見領、佐竹領を除く関東全域に勢力範囲を拡大している。
信玄の小田原城攻め後に滝山城が八王子城に転移され、秀吉との合戦前には小田原城を総構えに整備したり、山中城足柄城なども構築している。
合戦の準備はしたものの、実際の戦いでは、八王子城は、氏照が主要部隊を率いて、小田原城に行ってしまい、前田氏・上杉氏に攻められ、全滅させられた。堀が有名な山中城でも然りである。

近世以降は1590年の家康入封後は、小田原城と玉縄城のみとなり、一国一城令後は、城持ち大名は小田原藩のみ。
大名領として、六浦・荻野山中に陣屋が置かれ、家康の鷹狩りのために、神奈川御殿・小杉御殿(川崎)・藤沢御殿・中原御殿(平塚)が置かれたとも言っていた。

相模原市内の城館も教えてくれた。
  

歴史的に、はっきりと証明されるものには、3つの条件があるという。
1、伝承が残っている。
2、資料で登場している。
3、発掘調査で証明できている。
この3つの条件が揃っているものは、この相模原には、「磯部城」しかない。古沢古城の支城として、磯部城がある。
1478年の長尾景春の乱において長尾方の城として、「太田道灌状」に記録があり、
発掘調査によって箱堀が確認されているとのこと。

「当麻城山」には、鎌倉時代の武将当麻太郎の伝承がある。頼朝の弟の範頼の家臣であり、大将が心配なあまり、頼朝館に忍び込み、動向を探ったことによりつかまり、流罪になったという。範頼と一緒に九州まで戦いにも行っているとのこと。
そんな武士がこんな所にも居たんだな~

淵辺義博居館」あくまでも伝承地である。南北朝時代の武将で足利直義の家臣で、後醍醐天皇の子どもの護良親王の首を討ったと言われている。石巻の地へ逃がしたとされる説と安房国へ逃がしたとされる説がある。

「矢部氏居館」鎌倉時代はじめの横山党矢部氏の館跡と伝えられる。

「津久井城」は現場に行ってくれということで説明は無し。

この辺りは、天領地で旗本が持っていた。古淵駅に鷹狩りのモニュメントがあるので、そのことを聞いてみたら、前田藩の殿様がここに来たという記載が残っていると言っていた。

なかなか地元のことを知るのは面白いことだ。ぜひ、現場に行ってみたい。
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講演会 「武田家の滅亡に見る良い相続 悪い相続」を聞く

2015-07-20 16:54:47 | その他
平成27年7月20日(海の日)、梅雨が明け、海に行くには絶好な日和、私たち夫婦は、こんな題目の講演会に行った。

会社を経営しているわけではないし、ましてや子どもたちに残す遺産があるわけではないのに、歴史好きな私は、この武田氏の滅亡の真相を知りたくて、申し込んだ。
果たして、期待の裏切らない内容で、私は面白かった。
   


まずは、相模原と信玄の接点を話された。
それは、相模原にある八景(はけ)の棚には「さいかち」という樹?植物?が群生している。それは信玄が三増合戦の戦勝を祝って、植えたもので、また、中腹一帯の横穴には、敗軍の将士の自刃のところだということが、昭和43年にこの地に建てられた碑に書かれていると話してくれた。
ほー、津久井の方で勝ち名乗りを上げたと聞いていたが、景勝と言われているこの地でもこういうことをしていたんだなと感慨深く思った。
 


そして、いよいよ、武田家の滅亡の話に入る。

「戦国屈指の大名武田信玄の功績は、言うまでもないが、あまりに自分に自信があり過ぎ、自分亡き後の課題の認識が甘かったと言わざるおえない」と、講師の真崎正剛氏が熱弁を振るっていた。
なるほど、信玄の遺言を見ても、勝頼をないがしろにするようなものになっていて、真崎氏が言うように、あれじゃあモチベーションが上がらないよなと思った。

信玄の遺言というのはこうだ。

①自分が死んだら、三年間は喪を隠せ  これは有名なことだ。
②勝頼の子信勝を武田家第 28代当主とするが、16歳になるまでは勝頼を「陣代(信勝の代理)」とする。た だし、兜は使ってもよいが、それ以外のものは使ってはならない。有名な「風林火  山」の旗も自分で作れとも。   なんじゃこれ?
 勝頼の妻は、信玄の政略により、昔はまだ友好関係にあった「今は宿敵」織田信長の 養女である。だから信勝は、血のつながりはないが信長を祖父に持つことになる。
③勝頼は武田の諸将を朋輩と思うべきだ。決して家臣などと低く見てはならない。
④弟の信廉は予の影武者を務めよ

どうしてこんな遺言を書いたのか?どうも勝頼のことを嫌っていたのではなく、側室の子だという出生に秘密があるらしい。

勝頼は信玄の4番目の子で、その前の3番目までは、正室三条家の子どもである。

嫡男である義信が家督を継げば、何の問題もなかったのだが、義信は、今川家から嫁をもらっている。桶狭間の戦いで信長が義元を撃ったことで、京に上る近道は東海地方から進みたいと思った信玄は、今川義元の娘である嫁や今川家と親密な関係を持っている義信は、邪魔になると考えたらしい。義信は、30歳にして非業な最期を遂げている。病死か自刃かそれとも殺されたのか分からないということだ。次男は目が見えなくて坊さんになっていて、三男は病死。4番目である勝頼が武田家を継がなければならない状況に追い込まれてしまったということだ。

また勝頼を生んだ側室は、諏訪氏の姫で、諏訪大社の大祝(おおほうり)の一族で、一言で言えば「生き神様の一族」という、えらく由緒あるところから迎えてきた。

また、正式に「武田勝頼」に襲名したのは、信玄が死ぬたった2年前だという。そして、何の官位ももらっていない状態であったという。普通、大名が家督を相続するには、まして、源氏の流れを汲む大大名であるのだから、官位をいただくのは当たり前なのに、信玄はそういう手はずもせずに亡くなっている。可哀相といえば可哀相である。

そんな勝頼だから、自分の存在を示すためには、勝って勝って勝ちまくって、自分を誇示したかったのであろう。1574年には、難攻不落な遠江の高天神城を攻略し、領土を拡大している。
長篠の合戦では、老臣は戦わないことを勧めたが、無理強いしてこういう結果を招いてしまった。信玄が死んで(1573年、信州伊那駒場にて病死)、10年足らずで、武田家が滅亡(1582年3月、甲斐天目山にて勝頼自刃)という悲劇も起きなかったと思う。

ここに、真崎氏がいう「継がせるための教訓・継ぐがわのための教訓」を載せておく。
  
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後北条氏の滅亡の真相

2015-07-04 16:40:26 | その他
平成27年6月21日(日) 小雨降る中、相模川自然の村公園の中にある古民家園で、この辺の領主であった北条氏の滅亡に関する歴史講演会があるというので、千ちゃんとワクワクしながら行って聞いてきた。

室町幕府の後半、関東がぐちゃぐちゃしている折に、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が伊豆を乗っ取り、相模を平定した。(関東は関東管領が貴族化して、守護代が実権を握るようになり、山内上杉や扇谷上杉の対立もある。)、その時には、早雲は各地にお布令を出して、平定に尽くした。相模原の当麻山にも資料が残っていると聞いたことがある。

そんな北条氏が房総半島から相模・伊豆を支配して、平和な時代を築いた。そんな時代から5代氏直で滅びるまでのことを分かりやすく話してくれた。

   


つまり、北条は佐竹と仲が悪く、それを攻めるためには、西側の徳川と仲良くなってないと、安心して、攻めることができない。それで、北条は徳川と同盟を結んだ。また、秀吉は関白になり、2年後には、徳川は秀吉と和議を結んでいる。それに伴って、北条と徳川の同盟は意味を成さなくなり、秀吉に付け入る隙を与えてしまう。

徳川は北条の沼田領有を認めるが、領主の真田氏は沼田を渡さず、家康を離れ秀吉に従い居座った。ところが沼田城代が名胡桃城を攻めてとってしまったことから、秀吉は怒って、小田原攻めになった。小田原評定一夜城が言われたこともこの時代のことがきっかけである。

室町時代から戦国時代、そして江戸時代になるまでは、とかく群雄割拠で分かりづらいところもある。でも、こうやって詳しく知ることができると、歴史がますます面白くなる。
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映画「駆け込み女と駆け出し男」 まあまあ面白かった。

2015-05-31 07:19:11 | その他
平成27年5月30日(土) ウオーキングのついでに、橋本のムービックスまで足を延ばして、映画「駆け込み女と駆け出し男」を見てきた。

映画の筋書きは
「舞台は江戸時代の鎌倉。幕府公認の駆込み寺・東慶寺には離縁を求める女たちがやってくるが、寺に駆け込む前に、御用宿・柏屋で聞き取り調査が行われる。柏屋の居候で戯作者に憧れる駆出しの医者でもある信次郎は、柏屋の主・源兵衛とともに、ワケあり女たちの人生の新たな出発を手助けすることに。信次郎役に大泉洋。駆込み女に戸田恵梨香、満島ひかり。樹木希林、堤真一、山崎努らが脇を固める。」と、書いてあった。

私たちは、以前、東慶寺にある「聖観音菩薩立像」を見に行った時に、縁切寺として、豊臣秀頼の遺児「天秀尼」が千姫の保護の元、たくさんの武家の女人や市井の女たちを救ったということを知り、興味を持っていた。

そこでの映画だったので、時代は違うが、果たしてどんなふうに描かれているのか、どのようにして入ることができるのか、入った生活はどんななのか、そんなことを知りたくて見てみた。

冒頭の部分で、あまりにも都合よく、主人公の女二人が出会い、一緒に寺に駆け込むところでは、首をかしげる部分もあったが、それに、駆け込み寺に入る動機が弱い感じで、戸惑うところもあったが、だんだん物語が進むにつれて、脇役の演技に引き込まれながら、見入っていった。女人たちの寺での生活や2年の奉公で主人からの離縁状が話し合いがうまくいけば、もらえることもわかった。

また、寺での読経や武士同士の立ち回り等の日本文化的な要素を十分に取り入れ、また、江戸時代の市井の様子や日本の昔の風景を彷彿させた映像で、私たちを楽しませてくれた。

それに、最後はハッピーエンドで終わり、気持ちよく映画館をあとにすることができた。

最後のエンドロールを見ながら、映画はたくさんの人が関わり、なおかつ、一人ひとりの熱意があってそれが結集して、出来ているんだなーと、改めて思った。
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大関ヶ原展は大賑わい

2015-05-05 09:50:02 | その他
平成27年5月3日(日)、ゴールデンウイークの真っ只中、歴史好きの私としては、何か新しい発見があるか気になって、両国にある「江戸東京博物館」の特別展「大関ヶ原展」に行ってきました。
実は前に、実際関が原に行って、細かい布陣を見てきたことがあり、また、そこの資料館も行って、いろいろな発見をしたので、もう少し、何か新しい発見があるといいなと期待を持って行ってきた。やっぱりこれだけの武将が勢揃いしただけあって、見応えがあった。

両国は蔵前国技館もありお相撲さんの街でもありますね。
      

9時半から始まるということなので、その頃に着くように、家を出たのが失敗の元。
行ったらもう長蛇の列。
チケットを買うのに40分並び、その後、入場するのにまた40分並んで、やっと入った。
その間あまりにも暇なので、同じように暇しているであろう長男にラインして、くだらない話をしながら時間つぶしをしていた。そこで長男が「一日いても飽きないんだってよ」と、誰かの受け売りを言ってたから、ちょっぴり期待して、ワクワクしながら入った。でも、1時間半のただずーと立っているのは、日頃から体力には自信がある私でも、とても疲れた。入る前から疲れ、入ってからも、みんな真面目に展示物を一つ一つ並びながらゆっくり見ていたので、やっぱり疲れた。
私は、説明のイヤホンを借りて、その番号だけ立ち止まるようにして回った。
それでも、2時間くらい見たかな~。主人はさっさと回って、タバコを吸っていた。

あまり目新しい情報はなかったけど、入ってすぐに、大きな屏風が展示してあり、合戦に参加した武将たちの戦いの様子が描いてあった。
素人が見ても、よく分からなかったが、黒田長政と福島正則が仲違いをして、それを解決(和解)した証拠して、お互いの兜を交換したという逸話があり、この戦いでは交換した兜をお互いかぶっていたというので、改めて見てみたが、あまり良くわからなかった。
 

また、解説の声を担当している「杏」さんは、敵中突破した「島津義弘公が一押しの武将だ」と言っていた。


また、戦場には大きな扇を持っていくことが分かった。その金の「馬標」(うましるし)が展示してあった。見事大きい。なんだかシミのような黒い点々と模様のようなものがあったが、これは血のあとか?
 

黒田長政の功績をたたえていた。西軍の総大将である毛利が動かなかったのは、長政と密約を結んでいた吉川が毛利を動かないように抑えていたためだと言われている。家康の本陣より東に位置する南宮山に布陣していた毛利は、東軍を挟み撃ちにできる位置にあり、どう見ても西軍は有利で、毛利が動いていたら午前中には、戦いは終わっていたと思うほどである。
それと、小早川の裏切りも長政は、小早川の家臣に家来を付けていて、西軍に突撃するように、差し違いを厭わないほどに、脅したという。

ひとつこんなことも言っていた。「三成に、過ぎたるものが2つある。それは家臣の島左近と佐和山城である」と。過ぎたるものを持っていて、勝てる布陣であったのに、天下を取れなかった三成と、天下を取った家康と。
でも家康といえど、簡単には天下は取れなかった。たくさんの偶然、そして運がもたらした賜物なんだろう。
石田三成の盟友大谷吉継の最後も壮絶だ。
 

あと、常設展の方は、江戸の文化や暮らし等を実際に再現して展示してあったり、重さや手触り等を実際に体験できたり等、とても分かりやすく展示してあった。
    

でも、私はそちらの方はあまり興味なかった。唯一、鎖国時代にオランダの商人だけは、何回か、江戸まで来て、将軍に謁見していたという。世界の様子も歴代の将軍や家来たちは、これで、世界情勢を知っていたのだろう。ずいぶん前、江戸東京博物館ができたての頃に行った時に、フランス革命のことやアヘン戦争のことを書いた手紙が展示してあったと思ったので、案内の方に聞いたりして探したが、見当たらなかった。残念。でもこういうことだったのだなと分かった。
       

まあ、疲れたけど、歴史の壮大なドラマの片鱗に触れることができて満足である。やっぱり歴史は面白いな~
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