wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

初めての東京スカイツリー

2018-04-21 16:03:30 | その他
平成30年4月21日(土)、本来は高遠の桜を見に行くはずだったけど、今年は早くに桜が咲きすぎて、この時期では見ることができないので、ツアーは中止になりましたとの連絡が入り、2012年5月にでき、できてから5年たっているけど、まだ行ったことがなかった「スカイツリー」に、初夏の香りに誘われて、行ってきた。

高さ634mのスカイツリー。やはり壮大だ。
    

エレベーターで50秒かけて、350mまで展望デッキに上り、乗り継いで、20秒で450mの最上階まで行ける。
修学旅行生や外国人の人たちがたくさん来ていて、お土産を買うのに、だいぶ待った。

天気が良かったけど、少し霞がかり、遠くの方はあまりよく見えなかった。でもうっすらと富士山が見えた。
    

ガラス床はみんなが、自分の足を入れて写真を撮っていた。絶対割れないと解っていても、足がすくむとはこういうことかとよく分かった。
 

エレベータから上を写したらこうなった。
 

食事をしようと食堂街へ行ったが、とても混んでいたので、1階の並ばずには入れるお店で食べる。
「東京えんとつ」美味しかった。
 

歩いていたら、「三国神社」があったので、お参りをした。三越の「ライオン像」移設されていた。
   

近くに「すみだ郷土文化資料館」があり、頼朝の「隅田川渡り」のことが展示していた。
頼朝は、石橋山合戦で敗れ、房総(千葉)の方に逃げてから、再起を計り、こちらに来る時に、隅田川を渡るのに困り、当時その土地の有力武将だった「江戸重長氏」が参陣し、浮船を作り、手を貸したことにより、隅田川を渡り、板橋から府中、そして相模の国鎌倉へ来られたと、「義経記」にあった。
 

日本の最先端技術を結集した、日本が誇れる建造物「スカイツリー」、素晴らしい
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西郷隆盛 歴史講座

2018-03-21 13:11:43 | その他
平成30年3月10日(土)相模原市立図書館に西郷隆盛の歴史講座へ行ってきた。
 大河ドラマでやっているからなのか、すごい賑わいで、開始ぎりぎりに行ったら、席がほとんど埋まっていて、
 頭を下げつつ入れてもらった。

西郷の座右の銘「敬天愛人

西郷の簡単経歴
  1、安政の大獄が起こり、島津斉彬が急死し殉死を決意し、入水自殺。一緒に飛び込んだ月照だけが亡くなり、西郷は生き返る。
  2、奄美大島へ行く。その時は、6石の扶持米と住居が支給された。
  3、なかなか奄美大島の生活に馴染まなかったが、島妻(あんご)を娶り、子ども(菊次郎と菊子)ができ、
だんだん島の生活に慣れていった。
  4、鹿児島に帰ってくる。
  5、久光の政策に反対した。
  6、また島流しに。今度は徳之島に流される。流罪。
  7、久光の命令により、次に冲永良部島へ移動。2坪の狭さ  生涯の友となる川口雪逢と知り合う。学問に打ち込む。
  8、大久保らの力により、2年ぶりについに帰藩する。
  9、明治維新での活躍。勝海舟に「維新は西郷一人でやった」と言わしめた。薩長同盟、江戸城無血開城等
 10、役人と対立
 11、薩摩へ戻り、私学を創設。明治政府に反抗。
 12、西南戦争へ。

西郷の結婚

西郷の人となりは、
  情に厚く、義理に堅く、人望のある人。
  古き良き日本人の姿。
  貧しくも正直に失ったものを探し求める。
  お天道様が見ているから、悪いことはできない。  
  妻の糸子が「雨漏りを直してほしい」と言ったら、「いま日本中が雨漏りをしているから、うちの屋根は直せない」と言ったとか。
  坂本龍馬曰く「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」そんな人
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Let,s はじめての山登り

2017-11-26 10:39:49 | その他
平成29年11月25日(土)、職場の同僚4人と初めての山登りを行った。
何せ、一人が山登りのエキスパートだけど、あとの3人は、ハイキング程度の経験しかなく、おんぶにだっこの山登りであった。

とはいうものの、初めてのことなので、とても歩きやすいコースを選択してくれて、それも、自分が使っている杖まで貸して歩かせてくれたので、全く、難なく完歩できた。
これからは、私もウォーキングをするときにも、杖を用意して歩いたほうがいいと、納得がいった具合である。

では、どんなコースかというと、
高尾山口から、稲荷コースを通って、高尾山頂へ、それから、小仏峠の方へ行って、城山方面へ、そこで、昼食を食べて、少し下りて、バスで、高尾駅にというコースである。
     

最高の天気で、高尾山の山頂からは、きれいな富士山が見ることができた。
小仏峠の茶屋では、あったかいおでんが美味しかった。
この中の一人は、中学校のバレー部の先輩で、偶然にもこの春、管理職として、私の職場に来た方なので、今までの、空白を埋めるかのようにいろいろ話せたのもよかった。

少しレベルアップして、ぜひ今度は、陣馬山の方に行きたいものである。

万歩計は26314歩(18419m)を表示していた。清々しい空気、きれいな景色を堪能できて、大満足である。計画してくれてありがとう。
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初めて正倉院展に行く。

2017-11-05 10:33:20 | その他
平成29年11月4日(土)、三連休の中日、悠久の美を一目見たくて、初めて正倉院展に行ってきました。
友達は「毎年行っている。」と言っていたのが、頭の何処かに残っていたのかもしれない。
思い立ったが吉日とばかりに、主人と日帰り旅行。

金券ショップで新幹線のチケットを買い、駅に指定席の予約を取りに行って、運賃が少しだけ安く行くことができた。
また、新幹線の「のぞみ」で行けば、新横浜から京都まで、わずか2時間で行ってしまうので、奈良まで日帰りができる。
向こうでも優に5時間は過ごせて、奈良公園の周りの歴史的史跡も見学できたし、奈良国立博物館(正倉院展の会場)も十分に見られたので、これもありかなと、結論に達した。

では、一日の行程を残しておこう。

近鉄奈良駅を降りたら、そこには、行基の銅像と噴水がお出迎え。
  

行基は聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘されたようだ。

商店街を抜け、藤原氏ゆかりの興福寺へ。3つの顔と6本の腕を持つ阿修羅像が有名である。本堂が修復中で、仮講堂で展示されていた。意外と小さいのだなと感じた。
興福寺の境内には、五重塔がどんと立っていた。
  

次に、東大寺の南大門をくぐり、正倉院へ向かう。その間、奈良公園から若草山が見えた。神様のお使いである鹿もたくさんいた。大事にされているから、人懐っこい。
      

正倉院は、もともと東大寺の敷地の中にあったものを、ここに転置したらしい。高床式とは知っていたが、思いの外、高く、大きな建物だ。
     

そこから、少し歩いて、お水取りで有名な二月堂へ、あんな高いところから、水が湧き出ているのが、不思議だ。階段を上り切ったら、東大寺の建物が見えて、きれいな景色だった。そこで手作りの椿のストラップを買う。
      

次に、藤原氏の氏神様を祀る春日大社へ。
どこもすごい朱色だった。
   

最後に、奈良国立博物館へ。
正倉院宝物は、東大寺を建てた聖武天皇が756年に亡くなり、四十九日法要の際に、光明皇后が天皇の寵愛品
を、東大寺の大仏に奉納したのが始まりだそうだ。1200年以上もの間、よくこんなにきれいに残っていたなと感心する。それも、日本のものだけでなく、世界各地(ペルシャや唐等)の大陸文化が交易路やシルクロードを通って、日本へ伝来してきた。すごい壮大な歴史の流れを感じるし、それらを守った人々の努力もすごいなと感じる。
 

中でも面白かったのは、サイの角で作った盃。これは置くことができないので、ずーと持っていなくては駄目なもので、飲み続けなさいということらしい。
 

あと、はちみつの固まったのを、お腹の薬として、重宝していたらしい。
 

大仏開眼供養(752年)で披露した、伎楽という踊りで使われたお面。
 

色ガラスの盃やろうけつ染めの屏風、鏡や竪琴なども展示されていた。
       

また、光明皇后は、父母の菩提を弔うために、写経をさせていたともあり、そういうことのために写経もありなんだなと思った。

よく歩いて(16738歩)、疲れたけど、行き帰りの新幹線では、今読んでいる「駒姫」三条河原異聞 を集中して読めたし、こんな充実した日を過ごせて、幸せだなと感じた一日であった。
余談だが、
この本はまた、大変面白く、昔、女は武家を継続させるための、手段と使われていたんだな、そして、その大きな歴史の流れの中では、どうあがいても抗えないと、つくづく感じさせられた本だった。
だって、秀吉は、自分の子どもの世の中を盤石にしたいがために、関白にまで押し上げた姉の子どもである秀次を高野山で切腹させて、その妻、子、側室、その侍女らを、東海道の出着地点である「三条河原」で見せしめのために、首を討つ。この駒姫は、秀次の側室になるために、聚楽ていに入ったけど、五日後に、秀次は連行されてします。だからまだお目見えもない状態なのに、側室として見なされ、打ち首になる。悲劇である。
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書道仲間と書道博物館へ

2017-08-15 15:55:41 | その他
平成29年8月11日(金)、今年で2回目の「山の日」の祝日、雨が心配される天候の中、まああまり暑くないほうが歩きやすくてよかったのだが、鴬谷の「書道博物館」へ行ってきた。

まずは、早めの昼を食べ、それからゆっくりと、博物館や向かいの「正岡子規庵」、慶喜の墓へ行こうと話がまとまり、駅を降りる。
少し歩くと、根岸小学校という鴬が彫刻された立派な看板がある小学校があった。
 

その道路隔てたところに、有名な「笹乃雪」というお豆腐屋さんがあった。そこは、正岡子規や夏目漱石も通った豆腐屋さんということだ。少し奮発して、2800円の笹乃雪御膳を食す。
        

豆腐もこんなにも料理の仕方でバラエティに富んだ味が楽しめるものだと思った。

残念ながら、子規庵は9月まで閉館だということで、外見だけ撮ってきた。パンフレットの写真も載せておく。
  


書道博物館へ。
 

ここは、洋画家であり書家であり、小説の表紙や挿絵(夏目漱石「吾輩は猫である」)等、また、商品の標章(「みよちゃん」味噌)等を手かげていた中村不折氏のコレクションを展示した施設である。

中国の殷時代の甲骨文字から始まり、様々な時代の石に刻まれた文字が展示してあった。

中でも、亀の甲羅や牛の骨に刻まれた甲骨文字は占いで使われたもので、その解説を見ると、晴れるのか、雨は降るのか、災いは起こるのかなど、現代でも心配しているようなことを昔も占っていたようだ。

象形文字の「子」は、〇に十を重ねたもので、その文字が増えると「子孫」を表しているという。

夏目漱石は、「吾輩は猫である」が売れたのは、表紙や挿絵が好評だったからだと、お礼の手紙を書いている。

最後に、「谷中墓地」に埋葬されている「徳川慶喜」の墓に行く。
そこでは、地元のボランティアさんなのか、この「徳川慶喜」の墓について、とてもいろいろなことを説明してくれた。本来は仏教で葬られるものを、慶喜のわがままなのか、こだわりなのか、天皇家と同じ円墳で、神道で、埋葬されている。それには、当時、寛永寺の筆頭檀家であった渋沢栄一が慶喜に慶喜の弟と一緒にヨーロッパ遊説に
行かせてもらい、今あるのは慶喜のおかげだと恩を感じて、尽力を尽くしたと言っていた。
本人と本妻の墓が並んでいて、その後ろには、側室の墓があった。右側には、長男夫婦の墓もあったが、子どもがいなくて、御三家から養子をもらったと言っていた。
    

今回もいろいろな歴史的な史実を知ることができた。特に、慶喜の墓では、1時間半くらいずーと立って聞いていたので、みんな疲れてしまった。
5870歩4キロくらい歩いた感じである。
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