夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

名島辯才天社

2010年01月25日 23時11分36秒 | 歴史

祖母が44年程前(1966年頃) 父が商いを始めるとき実家で先祖代々お祀りされている名島神社の祭神と名島辯才天の祭神 『共に宗像神の比売神であり元々一緒に祀られていたそうで神功皇后が三韓遠征のおり祈願されたご縁で勧請されたそうです』 を祖母より勧請していただいたご縁で御神体の御印をお祀りしております。

名島辯才天社

今の社の東いと高き山を神宮が峰と云う。此山則いにしへ社ありし所也。一説、神宮皇后ののぼらせ給ふ峰なる故に、神功が峰と云う。小早川隆景、名島の城を築れし時、今の所にうつさる。神宮峰の南を鳥居峰という。是鳥居を建たりし所なり。城ありし時は南の丸という。元禄年中、國君より社を又むかしのごとく山上に移され、神殿をも綺麗に改め作りて、石の鳥居を立給う。其鳥居の額は、元禄年中、篤信が乞に依りて、花山院前内府定誠公書給ふ。むかしは大社なりしが、中ごろより衰けるにや。此神も宗像三神の内を勧請せしなるべし。天正十四年、秀吉公筑紫に下り給ひし時、此社に詣でゝ、社の衰へたるを見て、辯才天は福神なるに、荒てさびしき貧神なりとて笑いたまふと也。六月二十日祭あり。参詣の人多し。社僧の寺は、名島村にあり。神宮寺と云、名島山と號す。天台宗なり。國君より社領二十万石餘寄附せらる。又其西北辯才天の社に近き所に寺あり。宋榮寺と云。向春山と號す。社の側なる海際に、砧板瀬とて岩あり。民族傅へて云、神功皇后三韓より凱旋の時、此所に於て祝饗し故、砧板瀬の名ありと云。 筑前國續風土記