夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

子供の自尊心・・・優しい愛撫と愛の表現 &『無力の理性』と『心情の底力』

2018年03月18日 22時01分24秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
娘が職場で上司から次へのスキルアップを呼びかけれ、

受けて良いものかと相談があり、それを受けると新たなる事象が発生するので、

それに対応することが出来るのかと迷っていました。

未来のことは未来が解決するのであるから、

未来のことについて心配せず、

スキルアップを恐れずに受けて、

『今置かれた位置』を『亀さん』のように

一歩一歩ゆっくり歩むことがよい結果を得ることが出来ます。

そして他の人の仕事を手助けたり、

教えることは他の人の喜びとなり徳となり、

その喜びと徳があなたに巡り巡り廻ってきますよと答えました。



『無力の理性』と『心情の底力』

無意識はいつもあらかじめ存在しているのであります

祖先の生活を後代の子孫から説明するには、本末を転倒しているでしょう。

したがってまた、無意識を意識に因果的に依存しているとみなすのも、

私は間違っていると思うのであります。

むしろその逆のやりかたがただしいのではないかと思われます。



火が私の体をこがすならば、火の実在性を疑いません。

ところが幽霊が出るという恐怖を私がもっているとすれば、

私が単なる幻想に過ぎないという考えに逃避しょうとします。

幽霊に対する私の恐怖も、精神的な起源をもつ心的形象であって、

火と同じように実在性をもっているのです。

というのは幽霊が私に現実の恐怖を与えることは、

火が私に現実の苦痛を起すのとまったく同じであります。



感覚に映る真理は『理性』を満足させるかもしれませんが、

『心情』も捕え、これに表情を与えるような人生の意味は、決して生みださないのです。

けれども『心情の力』は、善しきにつけ悪しきにつけ、

主として、そして最終的にものごとを決定する要因であることが、非常に多いのです。

けれども、もしもこれらの力が私たちの理性に応援に駆けつけないならば、

理性もたいていみずから無力を暴露してしまうのです。

『理性とか善意』とかいうものが、世界大戦やその他の破局的な愚行から私たち守ったためしがありましょうか。



もし心理学者が重大な過ちを犯すまいと思うならば、

『道徳的な態度』こそ彼が考慮すべき実在的な要因なのです。

合理的に論証できぬある種の宗教的信念が多くの人々にとっては、

死活の問題であるという事実についても、これと同じことがいえます。

それからまた、精神的な実在が病気を起したり、病気をなおしたりすることもあります。

文明民族の場合に、精神的な一般表象が部分的に欠如していたり、

これを否認したりすることは、退化の兆候と考えねばなりません。

1934 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)


子供の自尊心

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の反抗であることがある。

大人でも権力で拘束せられる場合は、無言の怠惰―ハンガーストライキ、サボタージュを行う。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下のしるしではない。

それは子供の自尊心の強さから、

自尊心を傷けられたことに対する反抗心の顕われであることもあるし、

先生や、親や、友達が認めてくれない絶望からの自暴自棄であることもある。



『近代の心のない心理学 』 &  意識は心的現象の必然的条件(conditio sine qua non)であり、心そのもである 。

2018年03月17日 19時06分24秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
春の歓び

雲ひとつない、春日和の野原に、

スマートな土筆がひょっこり顔をだし、

自慢げに悦んでいました。




心のない心理学

意識は心的現象の必然的条件(conditio sine qua non)であり、心そのもである。

近代の『心のない心理学』は、すべて意識心理学であり、

そこには無意識の心的現象は存在しないのであります。

19世紀の後半にいたって『心のない心理学』が生まれました。

自然科学的唯物論の影響を受けて、目で見、手でさわることのできないものは、

すべて疑わしいと思われるようになりました。

いやそれどころではありません。『形而上学』くさいからというので、

汚らわしいとさえ思われるようになりました。

『科学的』とみなされ、したがってともかくも許されることになったのは、

物質とみとめられたものか、

さもなければ感覚によって知覚できる原因から演繹されたものだけに限られました。

精神の実在性に対する信仰は、物質の本質的実在性に対する確信がしだいに

台頭するにつれて影がうすくなり、とどのつまりは―ほぼ四世紀のあいだに

ヨーロッパの思想および研究者の先端的意識は、

精神をば物質的諸原因にまったく依存するものとみなすようになりました。




むかしは、存在する一切のものは精神的な神の創造的意志から生まれたものであるということが、

自明な前提であったように、

十九世紀は一切が物資的な原因から生じるという、

同じように自明な真理を発見したのであります。

今日では、心の力が肉体を組み立てるのではありません。

あべこべに物質がその科学的現象の中から心を生み出すのであります。

この転換は、もしそれが時代精神の偉大な真理の一つでなかったら、

とんだお笑いの種でありましょう。

そのように考えることが時の流行なのです。

したがって、礼儀になかなっており、理性てきであり、科学的であり、正常なことなのです。

精神は物質の随伴現象であると考えなくてはならないのです。

『精神』といわず『心』という場合にも、

また『物質』といわずに『脳髄』

とか、『ホルモン』とか、『本能』とか、衝動などという場合にも、

すべては、この結論に帰着するのです。

心の独立の実在性を与えることは、時代精神に反することなのです。

そんなことをすれば異端者にされてしまいます。

      
                        1934 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)



眼は物を視ない、耳は音を聴かない、脳髄はものを考えない。

視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのはこころである。

心は自分の便宜のために眼を創造し、脳髄を創造したのである。

ここにいう『心』とは野髄から出る作用ではない。

脳髄を設計したところの『心』である。

それは脳髄を設計したところの『心』である。

それは脳髄以前の『心』であるから『生命』とも『神』と同意義に解してもよい。



『注』

形而上学(けいじじょうがく)・・・五官の感覚ないし経験を超え、相対性を超えた世界を真の実在としてとらえ、
                 弁証法を用いずに、普遍的な原理について理性的な思惟によて探求して
                 認識しようとする学問。
                 『形而上学』に相対する用語は『唯物論』。




心の完全解放の為に・・・一切の赦しと一切の感謝。

2018年03月10日 20時33分07秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
講習会への決起集会を終えてホームセンタ―に立ち寄ると

園芸売り場に同僚の看護師さんが来ていました、

家庭菜園ですかと尋ねると、

いや花です!

と返事が返ってきました。

今日は心が開放されるような温かい日でした。

白モクレンもいよいよ蕾がふくらみ

開花まであとひと息です。


本当の『神愈』は神と和解しなければ得られない。

神に和解するとは、

全き信仰をもって神の愛を信じることである。

神は完全であることを信じることである。

神の造りたまいし世界に

『悪が存在しない』ことを信じることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。


既に赦されているのである。

『汝の罪赦されたり、立ちて歩め』と云うのは

キリストが2千年前のみに言われた言葉のみではない。

常に神は吾々にむかって

『汝の罪赦されたり、立ちて歩め』と仰せられているのである。

此の言葉を信じるものは幸いなるかな。


汝の罪は赦されているのである。

されば吾もまた神が吾を赦したまいし如く、

すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒の思い、一切の怨みの思い、一切の憎しみの思いを、

『愛』と『赦し』とによって置き換え、

更にそれを『感謝』によって光を点じなければならない。





『無からの創造』の存在論と『善の欠如としての悪』という倫理学の関係



近代思想では『自然法則』と『倫理法則』、『物理的なもの』と『道徳的』なものを

異質な存在様式をもつものとして分けてしまいますが

古代思想の世界では両者は理論的に分離されていないのです。


ユングが重視している倫理的基本命題は

『悪とは善の欠如である』という。

『実体としての悪』は世界(現象的世界だけでなく、霊的世界も含む)には存在しないということを意味している。

簡単に言えば『悪とは本来存在しない』ものであるということである。

此の定義と表裏一体の関係があるのが『神は最高善』であるとする定義である。

最高善というのは、悪の要素を一切含まない『純粋な善』である。

神の被造物としての世界には実体としての『悪』は存在しない。











今の一瞬を、神と、ともに生きているのです。・・・ユング((Carl Gustav Jung)の夢

2018年03月02日 21時23分44秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
あかりがともる家


ふーと風船の如く、

こころが飛んでゆく、

根なし草の如く、

留まることもなく飛んでゆく、

あのときのひとこまのおもい、

家々に灯りがともる夕べ、

たたずむあの時のおもい、

あこがれがときめき、

こころがときめく、

あかりがゆれる、

こころがゆれる、

こころがおののく、

こころがふるえる。

うつる灯りの影、

あかりがともる家に、

ゆこう、ゆこう、ゆこう、

あの、灯りのいえに、

あの、ときめく家へ。



ユングの夢


どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。

私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進をつづけたていた。

深いもやが、あたり一面にたちこめていた。

私は手で今にも消えそうな『小さなあかり』のまわりをかこんでいた。

すべては私がこの『小さなあかり』を保てるか否かにかかっていた。

不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。

振り返ってみると、とてつもなく大きい黒い影が私を追っかけていた。

しかし同時に私はこわいにもかかわらず、

あらゆる危険を冒しても『この光り』だけは夜じゅう、

風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。



ユングは目が覚めたときに、

夢のなかの『大きい黒い影』が自分自身の影であることがわかったのです。

この『小さなあかり』が私の意識であり、

『このひかり』は私のもっている唯一の宝物であり、最も偉大なものである。



ユングの基本姿勢は、

現在意識と潜在意識のどちら側にも

平等に見つめていこうとしていたのです。

ユングは自分の意識のあかりを、

それがいかに『小さく弱いあかり』でもあっても

その小さなあかりを大切にしていこうと言う決意のあらわれである。



熊本の震災で被害をうけた、安勝寺の鐘楼が復興しました。




如何にすれば境遇を改善し得るか!・・・平安な心に至る道しるべ (其の5)

2018年02月16日 22時24分51秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
ベートーンヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴きながら書いていますけれども

ベートーンヴェンも音楽家にとっては致命的な耳の病に冒されながも

不屈の精神力で力強い、霊感溢れる優れた曲を作曲しました。



場所に漂う雰囲気


ある時フエンイック・ホルムスはロンドンで大きな家を買って

クリスチャン・サイエンスの治療院を開いた。

患者募集の広告を出した。

彼は有名なだったにも拘わらず、はじめは誰一人も来なかった。

街に住んでいる病人で、毎日治療を受ける約束になっていた婦人が約束の時間よりも遅れて来た。

ホルムスが遅刻の理由を婦人に聞いて見ると、

治療院に近づかせないように、何かの力がはたらいて、

一時間も近くの公園のベンチに掛けていたのだと答えたのです。

ホルムスはその後に、この購入した大きな家を調べて見ると、

その家は個人経営の病院としてこれまで使われていて、

多くの患者が苦しんだり死んだりした所であることが判ったのです。

ホルムスは各部屋に往き、

すべての部屋が平和と信仰との雰囲気に満ちるように祝福の思念をし、

心の中に患者が一杯訪れ来ている有様を描いたのです。

しばらくするとこの治療所の部屋は病人で満員になり、

ホルムスのこの治療所はその後、常に繁盛したと云うことです。




私も以前ブログで紹介したことがありますが、

ある購入した土地に入ろうとすると何かの力が働いて、

どうしても近づけないと云う相談を受けたことがあります。




吾等は自己自身の天国と自己自身の地獄とを自分の手でつくるのである。

吾々の心に思い浮かべた観念を形に現してくれるからである。

暗黒的な雰囲気に冒されたと思ったら、

積極的な明るい態度をとって『自己は神の子』であり、

万物を支配する権を与えられているのであるから、

暗黒的な雰囲気以上に勝るものであり、

優越しているものであると自己の心に宣言しなければならない。



天国も地獄も自分自身の心のなかにある。


自分の心根しだいで天国にも地獄にもなります。

吾々の心に思い浮かべた観念を形に現してくれるからである。








不幸の癒しは時間、空間を超越して訪れる。・・・自分自身と他の人々とは奥深い世界では繋がっていて一体であるから!(平安な心に至る道しるべ― 其の4)                 

2018年02月15日 20時28分19秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
新幹線は1964年(昭和39年)東京、新大阪間が開業しましたが

それから58年後の2022年にいよいよ、九州新幹線長崎ルートが開業の予定です。

勤務先の病院の直ぐ裏側に新幹線の諫早駅が改装されています

駅の周辺は再開発されます。

新しい駅が出来ますと周辺に異郷の新しい人々が集まって来ます。

駅周辺はまるで植民地の新しい風が吹いているような街に変貌することでしょう。





施法の原理・・・何故他人の不幸を癒すことが出来るのか!


『神は全てのすべて』であるが故に、

神の霊の世界には自分と他の人々との境界線などは存在しないのです。

諸君が祈り言葉を黙念した瞬間、

その言葉は被術者の心の上に刻みつけられているのである。

なぜならその黙念された言葉は

時間も空間も超越せる

霊の世界において語られたことになるからです。

時間、空間を超越せる世界は

自分と他の人々を分かつ境界線は存在しないのです。

従って自分の心のうちに悟られた癒しの真理は、

被術者の人々の心の中にも癒しの真理の悟りが開かれることになるのです。







不幸は心から生ずる・・・平安な心に至る道しるべ (其の3)

2018年02月14日 21時36分46秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
二羽の若い白鷺が水面擦れすれに、

自慢げに白い翼を映して飛翔している。

幼い鷺達が愛に目覚めたのだろうか、

ホバリングして他の仲間に分け入る。

凍てつく朝の水辺は白鷺の天国である。



重荷をあげてくれるのは愛である、


あらゆる仕事を照らすのも愛である、

汝ら恐れないで争いを止めるのがよい。

 

何事を人がしようとも、言おうとも、

それが自分の心の内に入ることを許さなければ、

それは吾等に何らの不幸も与えることが出来ない。

他の人が自分の前で憂鬱に陥ったり、

くよくよと心配したからとて、

自分も不幸にならなければならない理由はないのである。

自己の幸福を他の人、または物から得ようと、

外の物に以来心を起している間は、

真の幸福は得られないのである。

もし何者かに寄りかかっているならば、

寄りかかっている相手の動きによって、

幸福は浮草のようなものになるであろう。

また境遇の奴隷となるであろう。

  



不幸を克服する。・・・平安な心に至る道しるべ (其の2)

2018年02月13日 21時58分27秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
今日は一転して青空がひろがり過ごし易い一日でした。

吾はすべてのものを与え給し吾が父に感謝します。



ユング(Carl Gustsv Jung)は人類には潜在意識のもっと深いところに

『普遍的無意識(宇宙意識)』(collective unconscious)が存在していると言います。

又は集合的無意識とも云います。

あらゆる民族・あらゆる時代のすべての神話や童話の

普遍的根本理念を人間は共有している、

神話について意識的には何ひとつ知らないような

個々の人の観念のなかにもそれは姿を現すのです。

潜在意識の深いところには

宇宙意識(神的性質)が存在しているいることになります。



現在意識は潜在意識を源として、発生したものであり、

固体がその環境に接触し、その環境を支配する為に発達したのであるが、

やがて潜在意識は逆に現在意識の暗示に服従し、

その希望を実現するために奉仕をする。

『この心の事実』を利用して運命を支配する戦いに、

希望を持って進むことが出来るのです。

神に繋がる潜在意識に、完全なる想念又はコトバを印象付けることによって、

肉体を健康に、又は運命を幸福にすることが出来るのです。    





もう一人の私・・・二重人格・多重人格・憑依現象

2018年02月08日 22時04分11秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
もうひとりの自分はどんな人間だろうかと思う時があります。

もう一人の潜在意識の自分は観ることが出来ない。

しかし幽かに観じることが出来る。

潜在意識を貫いた奥深いところにまします『神の御愛』。



二重人格・多重人格・憑依現象


心理学的に分析する場合と神霊学的な憑依現象とにとらえる場合があります。



心理学的に於いては

烈しく亢進している私と、落ち込んでいる私、

笑っている私と、怒っている私のように人には二面性があります。

しかし三面、四面性と多数の面性がある人が存在します。

誰でも笑っている時の私は、怒っている私を、はっきりとは認識してはいません。

またこの反対の時も同様であります。

しかし心が平静な心の時には、笑っている心も怒っている心もどちらの心も認識出来て、

その意味合いも理解できます。

大概の人はこの相反する両面の心を動揺することなく認識出来ます。

この相反する心を認識出来ない時に、

不安状態が現われ烈しく亢進したり、落ち込んだりします。

これは相反する二つ心の間に『心の壁』が出来て、通じ合う連絡口がないのです。

だから互いの自分を理解出来ないで、また知るよしもないのです。

一面の心の状態(性格等)が、他の一面の心状態(性格等)を認識・理解が出来ませんので、

自分自身の全体像を把握したり、観ることが困難となります。

自分自身で意識の関門、

または意識の検閲官を創りだして抑圧しているからです。

他の人が観察するとこの人物は二人の人格の人が存在していると見られます。

このような状態を二重人格的な性格といわれています。



神霊学的な憑依現象の場合。

ある人に他の人格がのり憑依(うつ)て色々の行動をして、言葉を発するのです。

その人格が去って元の人格に復帰した場合は、

元の人格は、他の人格が憑依(うつ)てその肉体の脳髄を使って色々の行動をして、

話したことについては全然記憶がないのである。

憑依した霊が行動し、話したことが脳髄に記憶が存続しなければならないのに

元の人格は、その記憶が全然存続していないことをみれば

脳髄はただ肉体の機関であり、

記憶が出入りする門にすぎないのです。

記憶そのものをもっているのは脳髄の背後にある、

物質を超えた世界にある『霊智者』そのものなのです。

感情の昂奮、恐怖心などによって精神が混乱状態によって起こる障害を

取り去ることによって、殆どすべての記憶が潜在意識の世界から、

現在意識の世界へ浮かび上がらせることができるのです。

それ故に蓄えられた記憶は喪失することなく来世にもちろん、

何代も存続するのです。

だから数代前の記憶が現われて来るのです。





愛と慈しみと赦し・・・仮面と影の分裂は癒され愛の花が咲く。

2018年02月02日 22時16分36秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
相手の苦しみは我が苦しみである。

相手の悲しみは我が悲しみである。

相手の憎しみは我が憎しみである。

相手の怒りは我が怒りである。

相手の喜びは我が喜びである。

相手の幸福は我が幸福である。



相手を『思いやれる心』、相手と『共感できる心』によって

私たちは、苦しみ、喜び、悲しみ、情熱であれ

自ら進んで他の人々とこれ等の経験を共にすることが出来る。


その『思いやれる心』が生長していく過程で、人間は個々が別々の存在ではなく、

本来一つに結ばれた存在であることを理解します。

これが『慈しみの心』であります。


仏教の教えの中心にあるものは、キリスト教の精神と同じであるように、

『慈悲』の実践です。

霊的な生活とはイエスはまず神を愛しなさい、つぎに自分が生きている基盤を理解し、

隣人を自分と同じように愛しなさい。

これは他者への慈しみの心である。

他の人と苦しみを分かち合う時、

私たちは苦しみ、悲しみが『愛』と変る神秘を体験します。


『慈悲』は私たちに人生を生き続けるための[ 喜び] を与えてくれます。



両足の無いハンセン病で苦しんでいる患者が泥の中を這って司祭のところに来ました。

司祭はハンセン病で苦しんでいる彼の手をとり、

どこが痛いですかと尋ねました。

その患者は答えました。『いえわっしじゃねえんです。となり居る奴の具合が悪いんで!』と。

両足が無い男は苦しんでいながら、司祭には何一つも自分の苦しみを訴えないで、隣人のことだけ心配していた。

『惨めさの世界と一緒になっている限り、悲惨地獄を逃れる道は無い』と。

                          インドの諺



赦しは『慈しみの心』を実践して行く過程で成就する。


慈しみの心』と『赦し』は自分の過ちから生み出した苦しみ、

あるいは他の人から傷つけられた為に受けた苦しみを、

心理的、精神的そして霊的な生長の糧へと変えます。

『赦しの心』を身につけた時、それまで自分の自我がたえず必要としていた自分、

他への批判の必要性を解き放ってしまうので、幸福と平安を得ることになります。

『赦し』は自分の主張を誇示するための行為でも、

相手の行動を大目にみてやる行為でもありません。

たとえ自分を傷つける行為を受けても、

そうするに至った相手の深い苦しみを理解してあげられるのなら、

私たちは他の人々の苦しみをともに分かち合えます。

その時自分は『慈悲ある者』となっています。

自分自身の赦しは自分が為している行為の向こうにある、

『自分の影』を受けいれることです。

自分自身の全体像を知る努力が必要です。

過去の傷はぬぐい去ることも、やり直しもききません。

しかし其の傷が私たちに与える苦しみ、悲しみ、憎しみの感情こそが

癒しをもたらしてくれる『超越の種』なのです。

私たちの苦しみ、悲しみ、憎しみ、嘆き等の感情は幸福と平安への道への『種』となります。

平安の道の『種』である、苦しみ、悲しみ、憎しみ等の『因縁のもと』を赦し、

その因縁のもとに『慈しみの心』を抱き、そして積極的に『感謝の心』を起すことです。

すると執着の心が解き放たれ自由自在の世界へと誘われます。

此のことがイエスの愛であり、仏陀の慈悲であります。






『愛は心の仕事である』・・・外見の美しさより、心の清明さが『死後』高く上げられる。

2018年01月31日 22時58分56秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
島原の子守歌の情景が島原鉄道の列車に描かれています。

『島原鉄道の重役でもあった宮﨑 康平が

妻と離れて我が子を背負い歌った切ない子守り歌です。

以前島原の自宅で一度仕事のことでお会いしたことがあります。

おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
梨の木 育ちよ・・・・・


神学や教条、教義を信用することは頭の仕事であるが、
『愛は心の仕事である』。



此の世でその仲間の者たちから卑しい人物思われていた人達に、

かえって外見を美しく見せて内の心を汚している人達よりも、

純潔で『聖いたましい』の人達があるものです。

思想や感情の動きや、心に思い浮かべられた想像によって

人は審判(さば)かれるのです。

このようにして造りあげられた人格は『たましいが脱した死後』に

その性格は露出して隠すことが出来ないようになります。

霊界に行って、急に人格が変化するものではありません。

人々は此処に来ても現世と同じ人格なのです。

人々は肉体が滅びた時に立っていた其の地点から出発するのです。

より善くなろうと努力しない限り同じ地点にとどまるのです。

そのことから税金とりや、遊女は天国へ上げられ、学者やモーセの律法を

厳格に守っているパリサイの徒はその光栄から投げ出されたりするのです。

神学や教条、教義を『信用』することから

『信仰』にまで進まなければならない。

そして信じ仰いでキリストの生活を模倣するとき、

吾らは初めてキリストの信者たるの名に相応しきものを得るのである。








怨念の行方

2018年01月30日 21時14分04秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
冬野菜はこの厳しい冷え込みにも

伸び伸びと生長しています。




表面に現われた悪心よりも、

心の内に在る『悪心』はなかなか捨て去ることが困難である。

それは、『悪心』は実在しているという観念からである。

『悪心』は、本当は存在しないのであるから

捨て去ることが出来るのである。


『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』

マタイによる福音書5.8

怨念の行方


怨念の行方は怨念をうけるべき条件に値する対象が存在する時は

その対象に憑依するが、しかしその怨念をうけるべきものが存在しない時には

その怨念は怨念を送り出したその人自身に憑依する。



利己的行為は自己犠牲によってのみ相殺することが出来る。



愛とは煩悩が解脱して

おのづからひらけゆくものである。

私的な愛欲の遠離であり、

釈迦出家の心であり個我の執着の断滅である。

性愛は人を呪詛にみちびくが

愛は人に平安と祝福とを与える。

愛は利己的な執着から脱却して

衆生に平等に慈悲の涙をそそぎかける。







先祖供養の大切さ     真理供養(法供養)・・・・・霊魂の浄化の為に 最終章

2018年01月22日 20時42分29秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
東京は大雪ですが、

こちらはまだ風もなく青空がひろがっています。

週明けはもう一つリズムが乗らないようで、足が重たいです。

帰宅時に車から降りて、

一寸足を止めると一羽の野鳥(水鳥)が挨拶に来ました。


先祖供養の大切さ     真理供養(法供養)・・・・・霊魂の浄化の為に


霊界に於いて霊魂が背負う『罪業』を浄化・消滅する道は

二つの道がありますが、自然に消滅する道は『霊魂自身が苦しむことによって罪業を償う』ことにより

その過去の罪業が清算されるのですが、

その方法では長期の時間がかかります。

その事は縁者が長期間その影響を受け共に苦しまなければならないことになります。

祖先及び家系に属する縁者の霊魂が霊界で苦しんでいるのを救う道を講じてやらなければならない。

霊魂の浄化は物質ではないのであるから、

摩擦のしめ木で拷問のようにしめ上げねば浄化できないというものではないのです。

霊魂の浄化は消極的には『懺悔』と

積極的には『真理を悟る』という二つの方法で行われる。

其の一つは過去の罪業を悪うございましたと懺悔して

心の世界でその罪業を否定して消去してしまうことです。

もう一つは人間の本来の姿は仏であり、如来であり、素晴らしい神の子であるという真理が書かれた経典を

霊魂の縁者から読誦(物施に対して法施とも『法供養』とも云います)してもらい

その真理の放送、霊波を霊界の霊魂が感受して

人間の本来の姿は仏であり、如来であり、素晴らしい神の子であり、

もう既に肉体が無いのですから、人間は本来『罪』も『穢れ』も無いことを霊魂が自覚して、

『悪業三昧の存在の世界』から解脱して、『如来の実相世界』へと超入することであります。

『如来の実相世界』へと超入することを『成仏』するというのである。

祖先、縁者の霊魂を成仏させてあげるのが子孫、縁者の務めでもあり義務でもあります。

またその『法供養』をすることにより、

その果報が自分自身に報いられて来て、家族、親族全体の健康ともなり、繁栄ともなるのです。






幽明の境を超えて語る(Speaking Across the Border-line)・・・・・ 神癒 (メタフィジカル・ヒーリング)

2018年01月21日 19時55分48秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
『魂』の訓練の為に長崎の練成会に、

僅かな時間ですが参加して来ました。



知恵の言葉

自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、

普賢菩薩の『東方浄妙国土』の地上再現なのであります。

これこそ一切苦厄を度(すく)う『神癒』の根本原理である。




人間は本当には死んではいないのです。

愛する人に死別して悲しめる人々よ、その悲しみは死後の生活をしらないからです。


幽明の境を超えて語る(Speaking Across the Border-line)

貴方は私が幽界へ移り行きついた状態を知りたいと思っていらしゃる。

私が死んだ時に、私は無意識の状態に陥ったのです。

と同時に私は自分の母の愛深き保護を受けていたのであった。

この状態で私は貴方かたの時間に直すと二週間の間じーつとしていた。

やがて自分の母と親しい身寄りの者の看護によって私は意識を回復したのであった。

すると、次第にこの新しき世界の脅威と美しさとが展開して来た。

木や花の愛らしさ、山々の荘厳さ、遥かなる湖面の輝き、

それらはいともなつかしく見え、すべてが霊動しているように思われた。

何事が起こったかというと、死の峠を自分はほんとうに通過したと

云うことを理解したのはそれからしばらく後である。

気がつくと私は小躍りした。

何故なら地上に於ける我が苦しみは耐えがたきものであったし、

私は死ぬことを望んでいたからであった。

私は不思議に新しき力が湧き出でるのを覚えた。

そうだ、私は文字通りに再び出生したのだ。

母や身寄りの者の霊魂達は私を美しい家の中に運び入れた。

そこには私の好きであった花が一つ一つ私を出迎えているように見えた。
・・・・・・・・


『注』
 
 神癒
(メタフィジカル・ヒーリング)・・・霊的治療・現象的に手がふれるとか、磁気的流動体がふれるとかの問題を超えところにある、
                  心理的療法を越えた、宇宙の実体は『一』であるから、
                  その一つであるものは完全な姿であるという哲学原理を根拠としている。









人間の肉体が滅した後の存在は如何なるものか?    霊魂の浄化・・・其の五  

2018年01月20日 17時51分58秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
年を重ねて行くと、人生を振り返るよりも是から先のことを考えることが多いようですね!

世間では『終活』と云う合理的な考え方が広まっています。

古代より死後の観念が神話、仏教説話より引継がれています。

生きている間から『死後の存在(生活)』を知ることは

是からさき人生を明るく生きていく上で大切なことであります。

『転ばぬ先の杖』と言う言葉がありますように死後の存在を理解しておくことは

今の生活をより良い心で暮らす事にもなります。

また『素晴らしい人間の本来の姿(実相)』を知るきっかけにもなります。


日本の古代における他界観念     

日本の古代における他界観念は、内陸部(山間部を含む)、及び海岸等の沿岸部とでは

死後の世界の観念が違っていたようであります。

内陸部では居住している場所、村落から近くの山中、又は地下が死後の『魂』がいく場所とされたいました。
 
沿岸部では海岸沿いの洞窟、海の彼方や海底を他界の観念としていました。

万葉集にあらわれた葬制、他界観、霊魂観。

明瞭に魂の昇天をうたったのが万葉集 167 に歌われています。

万葉集 167 日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂作る歌に

・・・・・神の命 天雲の 八重かき別きて 神下し 座せまつりし 高照らす 

日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます國と 

天の原 石門を開き 神あがり あがり あがり座しぬ わが王 天の下 知らしめしせば・・・・・

『天の原 石門を開き』は現実の横口式石槨の入り口ではなく、

観念の上では高天原の石の入り口(天の岩屋戸)を意味している。

この歌では明らかに死後に天武天皇の魂は昇天したとうたわれている。

このような観念が、歴代の天皇を天照大御神の子孫とする

『皇御孫の命』(すめみまのみこと)の意識が生まれたのだろう。

大嘗祭の本義とも密接に関わるところがある。



地下を他界とする観念は『古事記』、『日本書記』に

火之迦具土神を生んで火傷で『神避りしぬ』・・・・・(死に絶えた)伊邪那美神に逢うために

伊邪那岐神が死者の国である黄泉国(よもつくに)に行き、

伊邪那美神の凄まじい姿をみられた。

日本民族は此処にも『死』は生命の移行に過ぎず『永遠の死』を見なかったのです。



古代中期から中世になると、『山中他界観念』は恐山のように霊山の成立に結びついていく。

仏教の他界観の影響が浸透して、山中に極楽、地獄があるような観念がひろがっていきました。