不思議なめぐり愛 (愛について)
四女の娘に結婚をして下さいと云われる男性が現れ、ある料亭で私達両親に男性からその告白を受けました。
それも遠い遠い東北の秋田であります。
奥様がとうとうお別れの実感がしてまいりましたと言い、神妙にしておりました。
母の愛は父の思いとは多少位相があります。
釈尊の父母恩重経にも母の恩徳への思いの比重が強いように思われます。
遠い東北の男性と西の果ての長崎の女性との不思議な縁であります。
男女の縁は、既に男と女の半身同士の魂が存在していて、半身同士互いに一体となりたいと呼び合い、求めているから、
例えアメリカ、日本と分かれて住んでいようとも時期が熟したら年齢には関わらずに共に会え、一体となることが出来る云われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/68/24eb30c417a291f93d6b0312dc3826f9.jpg)
母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを生命となし、
飢える時、食を求るに母にあらざれば食らわず、渇く時、飲みものを求るに、母にあらざれば飲まず、
母寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に着せたまう。
十指の爪の中に、子の不浄を食らう。母の恩、重きこと天の極まり無きが如し。
このように愛の尊い源は『母の愛』であります。
しかし子供は母が娘を愛するようには母を愛しないのが常であります。
娘が母を愛するのは母の肉体から別れて生まれたと云う感情をもっているのではないのです。
娘が母を愛するのは、母が娘を愛してくれている映しとして母を愛しているのです。
それ故に子が母を愛するのは必ずしも生みの母とは限らないのであります。
養母、義母であっても愛される度合いによって、養母、義母を愛し慕うのであります。
また子が親を慕う愛については、食物を与えてくれるものに対する『本能的な愛着』が混ざっているのです。
動物は必ずしもその動物の母でなくとも、食物を与えてくれている人間を親のように慕うのであります。
スズメの雛を座敷でエサを与えて養っていると、飛べるようになっても人間を慕って追い回して肩に留まったりするものなのです。
このような食本能的な愛は好きな苺を破壊して食べてしまい、その本来の美しい姿を壊してしまうような愛なのです。
これはただの好き嫌いの愛であります。
これは相手を食い滅ぼす『性本能』にも云えることでもあります。
『恋愛』は曲者(くせもの)であると云われている所以であります。
しかし人間は恋愛によって摩訶不思議な感情を味わい、肉体的には、なんら関係のない他人でありながら、肉親以上の一体感を求め、それを自覚するのです。
娘は男性の後を追い、息子は女性の後を追う。
しかしこのような愛は自己を中心のすえている種族本能的な好き嫌いの『性愛』であります。
真の愛は種族的な『性愛』を超えなければならないのです。
『性愛』を超えてそれが昇華されて行くとき、欲情ではない『聖らかな恋愛』に達するのです。
これが互いにこれからの運命を共有して、貴方がいなけれが生きては行けないと云う、切に聖らかに一体にならんとすること願う、神秘的な魂の結び合いの共同生活が結婚であります。
清くして、しかして美しき
わがマリアよ
おん身はかって
ルルドの聖泉の巌壁に
きざまれし黄金の
三輪の薔薇の花を踏んで立ちし
聖母マリアか
わが愛は汚れたれども
君にふれなば
たちまち清まりぬ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/2d/fbd468db0ec07a8cf81ef09beb2a6b30.jpg)
四女の娘に結婚をして下さいと云われる男性が現れ、ある料亭で私達両親に男性からその告白を受けました。
それも遠い遠い東北の秋田であります。
奥様がとうとうお別れの実感がしてまいりましたと言い、神妙にしておりました。
母の愛は父の思いとは多少位相があります。
釈尊の父母恩重経にも母の恩徳への思いの比重が強いように思われます。
遠い東北の男性と西の果ての長崎の女性との不思議な縁であります。
男女の縁は、既に男と女の半身同士の魂が存在していて、半身同士互いに一体となりたいと呼び合い、求めているから、
例えアメリカ、日本と分かれて住んでいようとも時期が熟したら年齢には関わらずに共に会え、一体となることが出来る云われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/68/24eb30c417a291f93d6b0312dc3826f9.jpg)
母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを生命となし、
飢える時、食を求るに母にあらざれば食らわず、渇く時、飲みものを求るに、母にあらざれば飲まず、
母寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に着せたまう。
十指の爪の中に、子の不浄を食らう。母の恩、重きこと天の極まり無きが如し。
このように愛の尊い源は『母の愛』であります。
しかし子供は母が娘を愛するようには母を愛しないのが常であります。
娘が母を愛するのは母の肉体から別れて生まれたと云う感情をもっているのではないのです。
娘が母を愛するのは、母が娘を愛してくれている映しとして母を愛しているのです。
それ故に子が母を愛するのは必ずしも生みの母とは限らないのであります。
養母、義母であっても愛される度合いによって、養母、義母を愛し慕うのであります。
また子が親を慕う愛については、食物を与えてくれるものに対する『本能的な愛着』が混ざっているのです。
動物は必ずしもその動物の母でなくとも、食物を与えてくれている人間を親のように慕うのであります。
スズメの雛を座敷でエサを与えて養っていると、飛べるようになっても人間を慕って追い回して肩に留まったりするものなのです。
このような食本能的な愛は好きな苺を破壊して食べてしまい、その本来の美しい姿を壊してしまうような愛なのです。
これはただの好き嫌いの愛であります。
これは相手を食い滅ぼす『性本能』にも云えることでもあります。
『恋愛』は曲者(くせもの)であると云われている所以であります。
しかし人間は恋愛によって摩訶不思議な感情を味わい、肉体的には、なんら関係のない他人でありながら、肉親以上の一体感を求め、それを自覚するのです。
娘は男性の後を追い、息子は女性の後を追う。
しかしこのような愛は自己を中心のすえている種族本能的な好き嫌いの『性愛』であります。
真の愛は種族的な『性愛』を超えなければならないのです。
『性愛』を超えてそれが昇華されて行くとき、欲情ではない『聖らかな恋愛』に達するのです。
これが互いにこれからの運命を共有して、貴方がいなけれが生きては行けないと云う、切に聖らかに一体にならんとすること願う、神秘的な魂の結び合いの共同生活が結婚であります。
清くして、しかして美しき
わがマリアよ
おん身はかって
ルルドの聖泉の巌壁に
きざまれし黄金の
三輪の薔薇の花を踏んで立ちし
聖母マリアか
わが愛は汚れたれども
君にふれなば
たちまち清まりぬ。
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