先日ベネチア在住10年以上のFumieveさんのブログで
今は亡き RCサクセッションの忌野清志郎について興味深いことを記載されてました
このブログを読んでくださってる方にお知らせたくてリンクさせていただきました
http://fumiemve.exblog.jp/d2011-08-07/
上記サイトに貼り付けてある歌(彼の叫び:メッセージ)を聴いてみてください
私驚きました!
今から22年前まだ30代だった彼がこれほどまでの強烈なメッセージを
伝えていたなんて、、、、全然知りませんでした
今この時に生きてて欲しかった
そして大震災から5ヶ月が過ぎようとしている
あの日あの時日本国民が皆悲しみと恐怖のどん底に突き落とされた
絶対に風化させてはいけないこの恐ろしい出来事
でも人間の記憶というのは時間の経過とともに薄れていく
嬉しいことも悲しいことも、、、、、
だから生きていけるのかもしれないが
私も含め特に大震災の被害を直接受けてないエリアの人の悲しみや恐怖は当時より薄れていることでしょう
区切り区切りで振り返り思い返し、太く短くではなく
細く長くなにか出来ることをと思ってはいるのですが、、、、、
ちょっと前の話になりますが
6月の中旬妹からこんな連絡がはいりました
〝今週末から被災地にボランティアに行ってくる〟と
聞くと彼女の勤めている会社からの斡旋で現地入りするとのこと
会社は社員に希望を聞き業務に差し支えないよう1週間単位で
希望社員を現地に送っているとのこと
素晴らしい企画
義援金金という形で応援している企業はたくさんある
でもこうして人力の派遣というのも今後どんどん必要なことでは
それを受け入れる体制が整ってきてる今こそこんな企業がどんどん増えてくれればと思う
実際ボランティアに行きたいと思っても
会社勤めのある会社員がボランティアに行くことは不可能だから
1週間のボランティアに参加した妹から最近こんなメールがやってきた
彼女が書いた震災ボランティア記
見出しにこう書いてありました
〝一緒にボランティアをした地元岩手の方が、
気にかけてくれる人が全国にたくさんいると思うことが励みになると言ってました。
だから伝えなきゃって思いました〟
と、、、、、
以下内容ですかなり長いですがお時間あるときに読んでいただければと思ってます
6月下旬から7月頭にかけての1週間、震災ボランティアに参加して来ました。
私たちがお世話になったのは、岩手県南部の内陸の町・遠野市に拠点を置くボランティア団体の「遠野まごころネット」。
ここでは、全国のボランティア団体や企業からの団体派遣をはじめ、国内外からの個人ボランティアなど幅広く受け付けており、私が訪れた時には、拠点となる社会福祉センターに、国内外から200人ほどのボランティアが集まっていました。
私も彼らとともに社会福祉センター内に寝泊まりしながら岩手県南部の陸前高田市や
大槌町などの被災地で、瓦礫やヘドロの撤去や炊き出しなどのお手伝いを
1週間やってきました。
初めて訪れた被災地は、岩手県で最も被害が大きかった町・陸前高田市です。
私が最初に感じたのは磯の香に混じるわずかな腐敗臭でした。
鉄くずのように潰れた車や瓦礫が散らばり、家の基礎だけが360°広がる異様な光景は、
まるで爆撃を受け焼け野原になった町のようでした。
元の町を想像することができない姿に、一瞬にして本州太平洋沿岸500kmもの地域を破壊した、津波の圧倒的なエネルギーの大きさを思い知らされました。
活動初日、
緊張の中で参加したのは陸前高田市にある海辺の集落での
側溝のヘドロや瓦礫のかき出しでした
この日の最高気温は35℃。まだ東北は梅雨の最中でしたが、梅雨の晴れ間の日差しはすでに夏本番の鋭さで、津波で裸になった大地をジリジリと照りつけています。
津波が襲った現場は、地上にあったあらゆるものが瓦礫と化し、建材などから有害物質が出るとともに、津波で打ち上げられた有機質を含む海底の泥は、腐敗し病原菌の塊といわれるヘドロとなって被災地を覆っています。
そのため瓦礫撤去の現場では、瓦礫から出る粉じんや有害物質対策としてゴーグルやマスク・ゴム長靴やゴム手袋で完全防備し、まるでサウナスーツ状態で臨まなければ危険です。
側溝はヘドロでびっしりと埋まっており、水の流れが完全に止まっていましたが、30人ほどのボランティアが並んで、スコップを握りしめ、ひたすらヘドロを掘っては土嚢袋に詰めていきました。
側溝の中からはヘドロや小石の他、屋根の瓦から壊れたビデオやカセットのテープ、財布、貯金箱までが次々と現れました。
また同様に訪れた別の瓦礫撤去の現場では、
表彰状の切れ端、クラスの集合写真なども現れ、あの日あの瞬間、唐突に止まってしまった日常生活の片りんが感じられ、まるで人々の暮らしの遺品整理のような作業です。
この地に地縁のない人間だからこそ、手を止めずに、ただ黙々と瓦礫の整理をすることができるのかもしれないと感じました。
また、釜石市近くの大槌町という小さな町の避難所へは、夕食調理に訪れました。
この避難所では、未だ20数名の被災者が肩を寄せ合うように過ごしています。
ここでは週に一度の炊き出しが行われる日以外は、支援物資に届けられるパンやラーメンなどを食べて過ごすことが多く、何カ月も同じメーカーの同じパン、賞味期限を過ぎたものも食べざるを得ないというお話を伺いました。
本当にそんな状態なのか?
ずっと炊き出し支援を続けられている方に確認すると、実際には、米や野菜などの支援物資も相当数届けられており、避難所内で自活して自分たちの好きなものをある程度自由に自炊することができるはず。
けれど「せっかく届けてもらった支援物資を無駄にするのはもったいない」
また「自分の好きなものを勝手に作って食べるのは他の人の手前できない」
などの想いの中で、あるものを食べる生活が続いているのではないかと言うことでした。
避難所では、私たちに対し笑顔でお礼を言ってくださった被災者が、
避難所のニーズを聞き取りに来られた方に
「いつまで炊き出しなどの支援が必要か」と問われた際には、
「わたしらには何もない。飢え死にさせる気か!」と感情をむき出しにされる姿に、
どうしようもない苛立ちを垣間見ました。
この日は避難所に近い元漁港近くで、米軍によるバザーが行われていました。
腐敗臭が漂う瓦礫だらけの集落を、背中を丸め重いビニール袋を下げて歩く被災者を見かけました。
その姿は、まるで日本という国の中で生まれつつあるスラムを見るようで
いたたまれない気持ちになりました。
震災直後からボランティアの中心となって日々被災地に入り活動されている隊長は
語られます。
「震災後3カ月以上経っても、被災地は復興に向けてまだゼロにすらなっていません。
瓦礫を片付けないことには、ゼロにすらならない。
一つずつ人の手で瓦礫を片付けて、
マイナスをゼロにすることがボランティアの役割なんです」と。
また別の隊長は「震災直後は、多くの報道が被災地へ来ていましたが、今やニュースでは仮設住宅が出来て被災地は復興へ向かっているということばかり取り上げられています。
被災地の現場で、報道に会うことは殆どありません」と悔しそうに語られていました。
確かに、未だに瓦礫が散乱する広大な被災地で見かけるのは、
わずかに点在して活動するボランティアと重機、
そして未だに遺体捜索を続ける警察官のチームのみでした。
被災地での活動を経て感じたのは、震災から4か月、被災者を傷つけているのは、
未来の希望が見えない現状にあるのではないかということです。
昨日まで、当たり前に働き、当たり前に自尊心をもって暮らしていた人たちが、
誰かの手を借りなければ生きていけない状況になる。
そして、それがいつまで続くのか、終わりの見えない状況で日々を過ごしている。
その中で、自尊心をもって暮らすことはとんでもなく難しいことだと感じます。
復興が進みつつあるというニュースと眼前に広がる瓦礫の町のギャップ。
放射能・節電・政局など新たなニュースを求めて社会の関心が薄らぐ中で、
一部の人々の善意の中でしか生きざるを得ない状況は、被災者にとって悔しく、情けなく、もどかしく、自ら立とうという気力を奪うに十分な気がします。
では、被災者に私たちができることは何もないのか。
そうではないと信じたいと思っています。
瓦礫撤去で訪れた陸前高田市海辺の住居跡で、柱だけになってしまったお宅の片付けを行った時のことです。
この家の持ち主のOさんというおじいさんに、お話をお伺いすることが出来ました。
津波の際は、海から津波に追いかけられながら、なんとか避難場所の山の上にたどり着き、
奥さんと合流したこと。
その後、山の中腹まで津波が襲い、渦巻く姿を奥さんと二人、ただ茫然と見ていたことなど。
夜は避難所で過ごし、昼はボランティアとともに住居跡の片付けをされているOさんは、
最後に「ボランティアの方には、感謝しかないです。自分たちだけだったら、とても片付けなんかできなかった。今は何にもできないけど、2・3年して浜がきれいになったら、今度は夏に遊びにきてください」と語られ、
私たちボランティアのバスが去る時には笑顔で手を振って見送ってくださいました。
津波で家や財産を失い、今も避難所暮らしを余儀なくされているにも関わらず、
積み重ねてきた日常を一瞬にして奪い去った海を恨んだり恐れすぎたりすることなく、
またその土地に根を張ろうという逞しさ。
そして、ボランティアの手を借り、背中を押されながら、自らの足で歩いて行こうというOさんの前向きな姿に触れ、心が震えました。
私たち人間は、何があっても自然の中の一部であり、泣いても笑っても、どんなに文明が発達しても自然と分かつことのできない存在であることの自覚と覚悟。
そしてまた、自然の中で人が生きていくためには、精神的にも物質的にも手を貸し背中を押してくれる人の存在が不可欠だということを、Oさんから教わった気がきます。
それは私にとって、津波という「自然」のもつ圧倒的なパワーとともに、人が人を思う力というもののもつパワーを改めて認識させられた旅でもありました。
ボランティアセンターに集っていた人たちは、年齢・性別・職業もバラバラ。
国籍さえも異なる人たちです。
「自分の町が鉄砲水にあった時に、ボランティアに助けてもらったから、その恩返しです」と語った青年。
「人間が大好きだから、ほっとけなくて」とほほ笑む女性。
「社会に出る前に、いろんな人生経験をしておきたくて」と語る大学生。
「夢をあきらめて自分探しの旅に出ようと思ったときに、震災が起こったので、何か自分にも役に立つこがあるかなと思って」と話してくれた青年。
「悲惨な状況の中でも支えあう被災者から、これからの自国の社会の在り方を学びたい」と話すパレスチナからの学生。
一人ひとりの参加したきっかけは違っても、自分が動くことでほんの少しでも「誰かの役に立てれば」という心に突き動かされていました。
彼らと出会い、話をすることで、私自身随分と心強い気持ちになりました。
人が人を思う精神的なパワーは、目に見えず、言葉にしてしまうと、なぜか偽善あるいは独善的で嫌らしく感じてしまうため、表現しづらいのですが、
私たち人間という種族が生きていくうえで、不可欠なものだと感じます。
また反対に、人の「無関心」は、想像以上に、人を傷つけるパワーがあるのかもしれません。
震災から4カ月以上たった今、時間の経過とともに、被災地への「無関心」が生まれています。
遠く離れた地にすむ私たちですが、
時間の経過による風化のチカラに負けることなく、被災地の厳しい状況を想像力をもって思いやり、長く心を寄り添わせていくことができれば、
被災者はきっと再び自らの足で立ち上がる力を取り戻すことができるのではないか、
と感じています。
長くなりました。被災地の現場を見た人間として、ひとりでも多くの人に現状を伝えたくて力が入ってしまいました。