晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

離宮『プティ・トリアノン』に逃避した王妃の「お遊び」は<引きこもり>の元祖?

2011-10-23 22:46:04 | 歴史と文化
それ以後の「全欧」の王侯達の<宮殿>に対する捉え方を、完全に変えてしまった『ヴェルサイユ宮』。

それ以後の「あらゆる」上流階級の<豪華>に対する感覚を、全く変えてしまった『ヴェルサイユ宮』。

それ以後の「ヨーロッパ」各国の<宮廷生活>の在り方を、すっかり変えてしまった『ヴェルサイユ宮』。


     
     庭園から仰ぎ見るヴェルサイユ宮殿



「ヴェルサイユ以前」「ヴェルサイユ以後」と言われる、ヨーロッパの文化史と政治史に、他に類を見ない役割を果たした『ヴェルサイユ宮殿』の、宏大な庭園の、宮殿の位置からでは「見えない」遥か彼方に、離宮が二つある。


一つは、ルイ14世が造営した『グラン・トリアノン』。
所謂「大トリアノン」

二つ目は、ルイ15世が造らせた『プティ・トリアノン』。
つまり「小トリアノン」


ルイ14世は、あらゆる宮廷の生活を「儀式化」して、重厚長大にして華麗で厳かな生活を、自ら演出して73年間在位した。


その彼が、希に公式日程の無い午後が出来た際に、「奥方」と儀式抜きでくつろげる様に建てられたのが、大トリアノン離宮であった。

彼は、若い頃スペインの姫「マリア・テレーサ」を妃に迎え、彼女は二子をもうけて、天寿を全うする。

その後、ルイ太陽王は3人の女性と出会い、その度に(勝手に)結婚する。

その内最後の女性は、一人男子をもうけ認知され、継承権は無いが「王族」の一人となっている。

その4人のために、「大トリアノン離宮」は毎回立て直された。




その「大トリアノン離宮」の敷地に隣接して、『小トリアノン離宮』が造られた。


     
     小トリアノン離宮の建物自体の門


ルイ15世は、ヴェルサイユの宏大な庭園の中で<狩り>を行う際に、この小トリアノンに宿泊した。

そこが、その後のルイ16世の時代に、世を倦んだ二人にとっての「厭世の場」となった。


     
     小トリアノン


この離宮は、非常に小規模な3階建ての四角い建物に過ぎない。

現在、内装は既にルイ15世当時の内装は殆ど残って居らず、ルイ15世の治世になって、王妃「マリー・アントワネット」が好んで滞在した当時の物になっている。


ところで、そのマリー・アントワネットは、『オーストリア』から14歳で「将来のルイ16世」となる<皇太子>に嫁いで来る。

母親は、かの『マリア・テレジア』である。


そのマリア・テレジアその人こそ、それまでの「田舎大国」であった国を、ヨーロッパの「本当の大国」の仲間入りを成し遂げた君主であり、ロシアに『エカテリーナ』が登場するまで、唯一の女性の絶対君主であった。

今で言えば、持たざる物は無い、絶頂にある、恐れを知らぬ「オバタリアン」の権化とでも言う所か。

その彼女の、「公私」会わせて19人の子供達の、9番目で末娘。

要するに、どれほどの寵愛を受けて育って来たか、と言う事である。

逆に言うと、その立場に相応しい教養すら身につけているかどうか、ましてや人間として知っておくべき「社会のメカニスム」や「人間関係の綾」、さらには「上に立つ者の心構え」など、全く学ぶ間もなく、奥仏の融和の象徴として嫁いで来る。


時はルイ15世の晩年であり、側室が宮廷全体を仕切っていた。

側室が世の中を仕切っている事の矛盾は皆が解った上で、本音と建前を巧みに使い分けながら、なあなあで人間関係を取り結んでいた。

そんな権謀術数渦巻く伏魔殿の如きフランスの宮廷のまっただ中に、たった14歳何ヶ月かの「世間知らず」の小娘が放り込まれたらどうなるか、想像に難く無い。

「自分がフランス王国の皇太子妃である」
「自分が後のフランス王妃である」

としてしか行動出来ない小娘に、頻繁に起こる衝突に「巧く身を処す」事など出来よう筈も無く、宮廷全体を敵に回す事になってしまう。


内装は、それほど剛家絢爛と言う物では無い。


     
     遊戯室


     
     王妃マリー・アントワネットの胸像の乗った暖炉


離宮である以上、ヴェルサイユ本宮の様な「華麗にして豪華」なものではなく、白一色の壁面など、くつろげる様に出来ている。


     
     撞球室の暖炉にも王妃の胸像がある


     
     王妃の寝室


寝室は、敢えて天井を低く構えて、日常性が感じられる様に造られている。

本宮の寝室は、<儀式>としての生活である為、寝室も『儀式としてのお床入り』で有る以上、非常に「非現実的」な大げさな造りであるが。


     
     王妃の身辺を警護した「近衛の士官」の制服



プティ・トリアノン自体も、独自の庭園を持っている。

その中に、様々な建物が点在する。


     
     狩りの時の休息用の館


     
     狩りの休息の館(近景)



マリー・アントワネットは、演劇に凝っていた。

自分の劇団を組織して、女官達を団員として、定期的に公演を行っていた。


     
     王妃の劇場(客席から舞台を望む)


     
     王妃の劇場。


彼女は、宮廷に出仕している大貴族達を観劇に招いた。

禿げた男性を、客席の位置を巧く配置して席順を決め、舞台上から見ると「禿頭」で模様が描かれている、などと言ういたずらもやったと言う。

ただ、演じる女官達も、観せられる貴族達も、多いに迷惑だったとか。



しそれでも彼女は、増々「宮廷生活」を嫌う様になって、その内、プティ・トリアノンの庭園(これ自体も相当の広さを誇るのだが)の片隅に、実家であるオーストリアの<田舎屋>風の集落を造らせて、完全に引きこもってしまった。


オーストリアの建築家ミックを起用して、その事が又更に「浪費」を攻撃される事となってしまう。


     
     王妃の集落の中心部



池を配し、その縁に『王妃の館』を建てる。


     
     王妃の館


     
     王妃の館(側面)



そして其処ここに、あたかも実在の集落の如き雰囲気になる様に、各種の建物が配置されている。


     
     衛兵の監視塔



自給自足すると言う建前で、菜園や家畜小屋、葡萄棚、粉を挽く水車小屋、その他総てが「ディズニーランド」並みに、可愛らしく小奇麗に、配置されている。



     
     水車小屋


     
     水車小屋(裏側)


     
     菜園の管理者の家



夫に公務が無い午後、プティ・トリアノンまで妻に会いに来るルイ16世を、庭園の一角に建てさせた『愛の神殿』で、出迎えるのがしきたりであった。


     
     二人の「ランデ・ヴー」の場であった『愛の神殿』



更に、庭園の別の片隅に「八角堂」を建て、室内楽のオーケストラが陣取った。
時には、その八角堂で「お茶」をする事も有った。


     
     音楽堂として建てられた『八角堂』


その八角堂の左下に、人工の「鍾乳洞」を模した、小さな洞窟が有る。

18世紀「ロココ」の流行の「人工的嘆美趣味」の現れであった。

1789年10月7日午前、前の日に押し掛けて来ていた暴徒と革命軍が、7日早朝宮殿内に乱入し宮殿を制圧した際、マリー・アントワネットは寝室から急ぎ逃れ、ここプティ・トリアノンの洞窟に隠れていて、発見されてしまう事となる。



     
     『王妃の村』の一部を遠くから望む


まるで「印象派」の一服の絵画の様な、穏やかな光景の庭園である。。。


マリー・アントワネットは、意地悪な女は決して無い。

ただ、生まれが「世間」を知る事を可能とせず、嫁いでからは「世間の苦難」も知らされない立場に有り、本来なら何も問題にならない「王妃としての暮らし」をしていたに過ぎなかった。


ただ、時代がそれそ不可能にしていた。

彼女は、それを知らなかった。
彼女は、それを知る立場にも無かった。


他の時代に嫁いで来ていれば、国民に最高に愛されて一生を終わった王妃で有ったろうと、言われている。


コメント (1)
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