仕分け騒動の一件以来、多くの学者・科学者が新聞で見解を述べている。
でもそのすべては
「学問は大事だから、もっと金を出すべき」
という意見に落ち着いている。
学園紛争時に、自分の研究室や図書館の資料をズタズタにされた東京大学の教授が
「学問を破壊する行為だ」
という嘆きと悲しみの言葉を吐いた。
ところで、その言葉を見つけた吉本隆明は
「東京大学がなくなっても、いや日本中の大学がなくなっても、学問がだめになることはない」
と指摘した。
おそらく吉本さんの言うとおりだろう。
大学がなくなっても、学問する意志さえあれば、この世界から学問がなくなることはない。
大学は必要だろうか?
答えなど出ないに違いない。
今、大学はあり、なくなったときには、ない。それだけだ。
学問に真剣に取り組む人には、多くの資金が与えられ、学問を自己保身の道具にしているだけの人には消えて欲しい。
そう願うが、しかしどうすればそうなるかは分からない。
今、吉本さんが、「大学とは永遠の敵であり、乗り越えるべき敵としてのみ存在価値がある」と言ったことの意味がわたしにはわかる気がする。
大学とは、父親のようなものだ。
権威的であり、私たちのまえに立ちはだかり、理不尽な存在である。
その不当さをどれほど述べようと、私たちの心性には大学にしがみつくところがある。
私たちにできることは、その理不尽な存在を受け入れながら、私たち自身の生を生きることだ。
でもそのすべては
「学問は大事だから、もっと金を出すべき」
という意見に落ち着いている。
学園紛争時に、自分の研究室や図書館の資料をズタズタにされた東京大学の教授が
「学問を破壊する行為だ」
という嘆きと悲しみの言葉を吐いた。
ところで、その言葉を見つけた吉本隆明は
「東京大学がなくなっても、いや日本中の大学がなくなっても、学問がだめになることはない」
と指摘した。
おそらく吉本さんの言うとおりだろう。
大学がなくなっても、学問する意志さえあれば、この世界から学問がなくなることはない。
大学は必要だろうか?
答えなど出ないに違いない。
今、大学はあり、なくなったときには、ない。それだけだ。
学問に真剣に取り組む人には、多くの資金が与えられ、学問を自己保身の道具にしているだけの人には消えて欲しい。
そう願うが、しかしどうすればそうなるかは分からない。
今、吉本さんが、「大学とは永遠の敵であり、乗り越えるべき敵としてのみ存在価値がある」と言ったことの意味がわたしにはわかる気がする。
大学とは、父親のようなものだ。
権威的であり、私たちのまえに立ちはだかり、理不尽な存在である。
その不当さをどれほど述べようと、私たちの心性には大学にしがみつくところがある。
私たちにできることは、その理不尽な存在を受け入れながら、私たち自身の生を生きることだ。
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