以前、大学院に在籍していたときは感じていなかったけど、どこにも所属しない人間になると、自分がどれほど「大学院生」という肩書きに精神的に寄りかかっていたかが分かります。
大学院にいたときは、私は同じ大学院生や大学の人たちを毛嫌いしていました。みな日常の生活から遊離したアカデミズム内部のみで通用する言語を用い、大学の外に生きる人たちとは違うような言葉遣い・振る舞いをしながら、それがどうしようもなく俗物的に見えたのです。
しかし、いざ大学の外に出てみると、私自身も「大学」という場所に寄りかかって生きてきたことに気づきます。「大学院生」という肩書きがなくなり、大学と言う場所との接触を失うと、自分がとてつもなく小さくてどうしようもない存在に思えてくるのです。
自分の中のそういう部分に気づけてよかったのでしょう。
涼風
大学院にいたときは、私は同じ大学院生や大学の人たちを毛嫌いしていました。みな日常の生活から遊離したアカデミズム内部のみで通用する言語を用い、大学の外に生きる人たちとは違うような言葉遣い・振る舞いをしながら、それがどうしようもなく俗物的に見えたのです。
しかし、いざ大学の外に出てみると、私自身も「大学」という場所に寄りかかって生きてきたことに気づきます。「大学院生」という肩書きがなくなり、大学と言う場所との接触を失うと、自分がとてつもなく小さくてどうしようもない存在に思えてくるのです。
自分の中のそういう部分に気づけてよかったのでしょう。
涼風
やはり卒業するとそう感じるものなんですか?僕自身はあまり意識していないんですけど、やっぱり卒業すると考えてしまうものなのかもしれませんね
うーん、普通の大学生ならあまり感じないかもしれません。あるいは、通っている大学の名前にプライドをもっていたら(「俺は早稲田だ!」みたいな)、感じるかも。
私の場合は「大学院」という場所にいて一応「研究者」という集団の中にいたので、知らず知らずのうちに(根拠のない)エリート主義が身体に染み付いていたんだと思います。
実際は現在の大学院は大学並みに大衆化して誰でも入れるので、エリートでもなんでもないんですけど。
コメント、ありがとうございました。