joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

大衆

2008年02月29日 | 日記
大衆的な支持を得た政治家を批判する人は多い。

しかし大衆的な支持を得た政治家を賞賛する人は少ない。

「知識人」でなくとも、ネットでモノを言う人は、タレント的な人気で当選している政治家を批判することが多い。多くの人が批判している。マスコミも批判する。

これは、つまり、ものを考える人は大衆政治家を批判し、何も考えない人は大衆政治家が大好き、ということか。


でも、大衆政治家を批判する人でも、ものを考えていなさそうな人は多い。

では、大衆政治家が大好きという人は、何も考えていないというのは本当か? 人々は大衆政治家の何が好きなのか?


経済学者の野口さんは、民は政治家・リーダーに「無目的に遊ぶ」性向を求めている、と述べている。

都知事選での大差と『宇宙戦争』の火星人

野口さんの言うのは、知性とは無目的に遊ぶ性質をもっており、知性を持つ政治家を民は求めている、ということです。

この「無目的に遊ぶ」とは、チクセントミハイの言うフローの概念に似ている。何かに役立つわけではないけれど、思わずしてしまうことを指しています。

たしかに「無目的に遊ぶ」のは知性の重要な要素だ。でも、民がそんなものを政治家に求めているだろうか。

大衆的な人気を得て当選する政治家を見ていると、お金のために政治をしているわけではないことはわかる。たとえ公費で豪遊していても、それを目的にしているようには見えない。

かといって政策の遂行を楽しんでいるようには見えない。実効的な政策を地道に行っているようにも見えない。

彼らに共通しているのは、要するに「自分が大好き」で、「頂点にいる自分」を愉しみたい、ただそれだけではないだろうか。

どうしても実行したい政策があるわけではなく、どうしても創りたい共同体があるわけでもない。「頂点にいる自分」が好きだということではないだろうか。

それは、無目的に「頂点にいること」を楽しむ、とはいえる。

でも、そこに知性は存在しない。

また民は、そのように「頂点にいる」ことを愉しめるような人が、好きなのだし、そこに知性を求めているわけでもない。

政策立案・遂行はフローになりえても、政局・選挙はフローの対象にはなりえない。フロー、無目的に遊ぶことは、「自己」に囚われることではないのだから。