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話し言葉と書き言葉

2008-10-18 23:13:24 | 言葉と文字

 話し言葉と書き言葉といえば、口語体と文語体を思い浮かべますが、日本語の場合は単語レベルでの違いがあります。
 日本語は、言語体系の違う中国から漢字という表意文字を輸入したので、話し言葉とは別次元の言葉が沢山あります。
 新しい言葉を作るとき、たとえば日本語で遠くを見る道具を「とおめがね」とするところを、漢字では「望遠鏡」という具合に、漢字を組み合わせて作り上げています。
 「ぼう」とか「えん」「きょう」は漢字の読みで、それぞれは日本語の話し言葉ではありません。
 「望遠鏡」という言葉が作られれば、これは文字言葉ですから、「ぼうえんきょう」と読んでも、「とおめがね」と読んでもよく、音声言葉としては不安定です。
 話し言葉とは関係なく、漢字を組み合わせて新しく言葉を作れるので、たくさんの同音異義語のような、話し言葉では考えられないような現象が起きています。
 たとえば「こうせい」と読む単語は、構成、校正、公正、攻勢、厚生、後世その他で、広辞苑でみても30種類ほどあります。

 「こうせい」という単語を音声で聞いてもどんな意味かわからないのですが、漢字を見ればわかるのは、話し言葉と関係なく、意味から考えて、漢字の組み合わせで言葉を作ったからです。
 「日本語は言葉を聴いて漢字を思い浮かべるようになっている」というようなことがいわれるのですが、もともと日本語がそうだということではなく、文字の組み合わせで単語を大量に作ったからです(特に明治以後)。
 当然、文字の組み合わせでできた言葉なので、聞いただけでは意味がわからなかったり、同音語が多くて紛らわしかったりします。
 たとえば「しりつ」という言葉は、昔はなかった言葉なので、意味を伝えようとすれば「私立」を「わたくしりつ」というように言い直したりするのです。
 漢字の知識を多く持っている人は、「幹事」を「みきかんじ」、「監事」を「さらかんじ」などと言い分けて、漢字を思い出させれば意味が通ずるなどといいます。
 漢字知識があまりなければ、「みきかんじ」「さらかんじ」などといわれても何のことやらわかりませんから、漢字の組み合わせによる造語は話し言葉とは遊離しているものなのだということがわかりますの。

 話し言葉とは関係なく、漢字の組み合わせで言葉が作られれば、単語の読み間違いが当然多くなります。
 「消耗」の読みは「しょうもう」でなく「しょうこう」が正しいといっても、「こう」は話し言葉ではないので、「しょうもう」と読まれていいるのを聞いてもオカシイとは感じない人が多いのです。
 「言質」が」げんち」と読まなければなららいといっても、普通の人の感覚では「げんしつ」でどこが悪いのかわかりません。
 「相殺」を「そうさつ」と読めば百姓読みなどといって、軽蔑されたりしますが。「そうさつ」と読んでも文字は同じなので意味は通じているのです。
 漢字の読み自体は、中国から伝わってきたときの経路とか時代によって違い、しかも中国の原音でなく日本風になまったものですから、ドレを正当とすべきかわからないところがあります。

 それとは逆に、もともと日本語にある言葉を、なんでも漢字に直すようになると、別の言葉なのに漢字で意訳すると同じ感じになってしまうものも多くあります。
 たとえば「またたき」と「まばたき」は共通の意味もあるので、漢字で書くと「瞬き」となります。
 「またたき」は「まばたき」と共通の意味をもっているのですが、「星がまたたく」とは言っても「星がまばたく」とは言わないので、同じ言葉だというわけにはいきません。
 「数学の問題をとく」といっても「問題をほどく」とはいいませんが、漢字ではどちらも同じ「解く」です。
 「へそ」は漢字で書くと「臍」ですが「ほぞ」も「臍」です。
 「へそ」も「ほぞ」も元の意味は同じですが「臍を固める」は「ほぞをかためる」と読まないと意味がわかりません。
 漢字を当てればかえって紛らわしいこともあるのは、話し言葉に(文字と関係なくできた言葉)に無理に漢字を当てるからです。
 なんでも漢字で表そうとすると、極端な場合は、「目出度い」「出鱈目」のように漢字にすると意味がまったく不明になってしまう場合さえもあるのです。
 


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