「うなずく」の語源は「うなじ(項)+突く」で「うなじつく」が「うなづく」となったので、「うなずく」と書いたのでは語源がわからなくなるいう説があります。
これは。新仮名遣いが「ち」「つ」の濁音が「し」「す」の濁音と発音が同じだからと、「ぢ」「づ」と書くべきところを「じ」「ず」と書いてしまうので不都合である、という例として挙げられる代表例です。
「うなずく」は「うなじ突く」だから、「うなづく」と書かなければいけないと言われれば、なるほどそうかと、つい「うなづいて」しまいます。
しかし、なんとなくヘンな感じがするのは、「うなじ」というのは首の後ろの部分ですから、「うなづく」というのは、図のように後ろから誰かが何かで突くということになります。
ふつう「頷く」といえば、誰かほかの人のうなじを突くという意味ではありません。
すくなくとも、頷く人が自分で首を縦に振ることで、後ろから突かれることではありません。
普通の人は語源意識を持たないので、「うなずく」と書かれていれば、すぐに意味がわかるのですが、「項突く」あるいは「うな突く」などというのを見れば、一瞬戸惑うのではないでしょうか。
語源は「うなじ突く」かもしれませんが、そのことを意識することが意味の理解を助けるとはいえません。
同じように、「つまずく」も、語源は「つま(爪)突く」だから、「つまづく」と書くべきだといわれますが、これもいまでは紛らわしい表現です。
「爪突く」という表現を見れば、手の指先で何かを突くように感じられ、足の指先というふうに感じないのではないでしょうか。
「突き指」をするのも、足の場合もあるかもしれませんが、手のほうが一般的です。
「足の先が何かに当たってバランスをくずす」という意味だとされれば、そういえばそういう風にも取れるという程度です。
「つまずく」とかかれてあれば、足のことだと誰でもすぐにわかります。
手の指で突くとか突き指をするなどと感じることはないでしょう。
また「いなずま」にしても「稲のつま」だから、「いなづま」と書かなければ意味がわからないともよく言われます。
稲の結実の時期にイナズマが多いので、「稲のつま(夫)」ということで「稲妻」という言葉ができたというのです。
ところが漢字ではふつう「稲妻」と書いて「稲夫」とは書きません。
結実する稲のほうが妻なら、イナズマのほうは夫でなければならないので、稲夫と書かなければ意味がおかしくなってしまいます。
「稲のつま」だから「いなづま」だと聞けば、「夫」だと思わず「妻」と書いてしまうのは、意味を考えずに書いてしまっているのですから、この場合、語源意識は有効に働いていないのです。
例は違いますが、「キサマ」という言葉を、語源は「貴様」だということわざわざ持ち出せば、それはそうかもしれないが何の冗談だと動機が疑われます。
「キサマ」といわれれば、語源とは関係なく普通の人は腹を立てるので、「いや、そんなつもりはないんだ、語源的には」などといっても通用しません。
日常使われる言葉は、聞けば意味が直ちにわかるので、語源などを持ち出すと意味がおかしくなりかえって混乱するものなのです。
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