左上の図では斜めの線は一直線上にあるのですが、裏でつながっているようには見えません。
右の図はこれに書き込みを加えて、中央の平行線を柱に見えるようにして、人が綱を引っ張って、滑車を使っておもりを引き上げているように仕上げています。
このように図形に意味づけをすると大人の場合は斜めの線がつながっているように見えるといいます。
幼児の場合は斜めの線が左側と右側とがまだずれているように見えるのですが、成人になるにつれ左の線と右の線がつながっているように見えるとのことです。
つまり、左側の図のように意味のない図形で表現されたときは錯視が発生するのが、右の絵のように綱が引っ張られ、ピンと張り詰めているように意味づけられると、視覚が体制化されてつながって見えるというのです。
意味づけによって見え方が変り、錯視が少なくなるとということで、幼児より成年になるにつれ、意味づけの効果が増すと考えられています。
しかしこのような説明は、説明を受けたときには納得するのですが、もとに戻って考えると何となくおかしな感じがするでしょう。
図形に意味を与えるということは、思い込みをするように導くことで、そうすることによって錯視が減るというのは、逆のような気がするからです。
意味づけをしたりして思い込みをすると、ありのままに見えなくなり、その結果錯視してしまうとというのが自然です。
幼児は思い込みが少ないのでありのままに見るのに、大人は思い込みで見るので錯視をするというのが常識的な説明です。
幼児が錯視をして成人がありのままに見ないで、思い込みで見るので錯視を免れるというのは、説明としては納得しにくいでしょう。
それでは意味づけをしないと錯視をしてしまうのかというと、それがそうではありません。
たとえば左下の図には斜めの線の両端に黒丸がついていますが、この黒い丸の部分を視線を動かさずに同時に見ると、斜めの線は一直線に見えるようになります。
これはわかりやすくするため黒丸をつけたのですが、黒丸をつけなくても線の端を同時にみればよいので、左上の図で斜めの線の両先端を同時に視線を動かさないで見れば、同じ結果となります。
錯視が生まれるのは斜めの線と真ん中の二本の垂直線が接する部分に注意が向き、斜めの線を見るために視線を動かしてしまうためです。
幼児は離れた場所を同時に見る能力ができていないので、どうしても視線を動かして見てしまいます。
成人は図形に意味が与えられることで、人の手の部分と滑車の部分とを同時に見るようになります。
ロープを持っている手の部分を見ながら、錘がぶら下がっている滑車の部分を同時に見るので綱がピンと張っているように見えるのです。
幼児より視野の広い成人のほうが視野が広く、斜めの線の両端を同時に見ることができるので錯視量が減るのです。
ものを見るとき視線は自然に動くのですが、意味が与えられるとある場所を見て続いて特定の場所を見れば、視線を動かさないで二つの場所を同時に見たような効果が得られます。
図に意味づけが与えられると視線の動き方がきめられ、視線を動かさないで見たような効果が得られるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます