たとえば昆虫は「頭」と数えるのが正しいなどとして、蟻でも蝶でも一頭、二頭と数えるのが正解などという議論がありますが、こういうのは倒錯した議論です。
昆虫が頭と数えられるようになったのは明治からのそれも生物学者のなかでのことで、いわば日本語知らずの用例です。
蝶や蟻などを頭と数える根拠などなく、日本語の語感を破壊するものでしかないのに、これが正解という風にクイズにしたりするのも困ったものです。
このほかに、兎を一羽と数えるのも感覚的には無理があり、慣用とはなっていても、わざわざ正しいとする必要はなく、一匹と数えられつつあるならそのままにすればよいのです。
英語などは名詞を、ひとつ二つと数えられる可算名詞と水のように数えられない物質名詞にわけていると言語学では説明します。
ドイツ語やフランス語は男性名詞と女性名詞とに名詞を分けています。
これに対し、日本語や中国語などはそうした分類法を取らず、助数詞によって名詞を分類しているという風に解釈しているようです。
しかし助数詞は日本語も中国語も500種類ほどもあるそうですから、分類法だとすればかなり混乱したものだということになります。
実際日本人が助数詞を使っている例を見れば、名詞を分類しているという感じではなく、物の状態を感覚的に表現しているように見えます。
助数詞は名詞を分類するものだというのは、ヨーロッパ流の言語学を基準にした解釈なのです。
助数詞が名詞の分類基準だと考えてしまうと、この名詞はこの数え方でなければならないというような厳格な基準を当てはめようとしがちになります。
実際にはひとつのものに何通りかの数え方があったりするので、必ずこうだという数え方があるとは限りません。
物の状態を表現するものだと解釈すれば、よりゆるやかで実態に即したものになり、言葉が豊かになります。
使い方は「~が正しい」ということでなく、「~がふさわしい」という慣用例が主力になります。
飯田朝子「数え方もひとしお」によれば数の子は「ひと羽、ふた羽」と数えるのだそうです。
タラコやスジコのように「ひと腹、ふた腹」と呼ばないのは、昔から値段が高くて人腹分を買うことがなかったので、買いやすいように片腹を「ひと羽」と呼んだのかもしれないなどという解釈が載っています。
しかし、数の子は今でこそ高価になっていますが、昔は安価だったので、高価ゆえに名前の付け方が別格だったという説はぎもんです。
このような無理な解釈をしなければならないということは、この呼び方は一部の人を除いて無効になっているのです。
日本語の助数詞はバラエティに富んで、日本語の表現力を豊かにしているので、尊重すべきものですが、あまりにも分かりにくくなっているものは、変化に任せるべきです。
にぎり鮨の「一貫」という数え方も、根拠が不明のため「一カン」などとカタカナで表現されたりする例が最近は見られますが、イメージがふさわしくない表現は淘汰されていくのではないでしょうか。
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