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言葉と意味の共有

2007-09-10 23:36:32 | 言葉とイメージ

 いまここにAさんとBさんという人がいたとして、「イヌ」という言葉について、それぞれの人が持っている知識の内容が図のようであったとします。
 Aさんの持つ知識とBさんの持つ知識はまったく同じではないのですが、重なりある部分、つまり共通部分があります。
 共通部分がなければ話は通じないのですが、共通部分があるのでAさんとBさんが「イヌ」という言葉を使って話をしても意味が通じます。
 そうすると、あたかも「イヌ」という言葉自体に固有の意味がそなわっているかのように感じられます。
 実際には同じ「イヌ」という言葉を聞いても、知識や経験が異なれば受け取る意味やイメージが異なる部分があるのですが、共通部分があって意味が通じ合うと、同じ言葉だから同じ意味であるかのように感じがちなのです。

 AさんがBさんとだけでなく、Cさん、Dさん、、と多くの人と同じ「イヌ」という言葉で意味が通じ合う経験を持てば「イヌ」という言葉にはその言葉固有の意味があるという感じは強くなります。
 「イヌ」という言葉は「すべてのイヌの特徴から共通のものを取り出してまとめたもの」だというような考える人も出てくるわけです。
 誰でもが共通して受け取る意味とか、本当の意味があるというふうに考えるようになるのですが、実際そういうものがあるかどうかは確かめることはできません。 

 AさんがBさんと話をした結果、それまでもっていなかった知識をBさんが持っていることを知ればAさんの知識は変化しますし広がったともいえます。
 このときAさんにとって「イヌ」という言葉の意味が変わったということができますが、言葉についての知識が広がったあるいは深められたということもできます。
 言葉についての知識が広がったと考えると、現在の知識は言葉の意味の一部分であって、言葉にはさらに広がりと深みがあるということになります。

 言葉が「イヌ」のように具体的なもので、よく知られているものであれば問題はないのですが、あまりなじみがなかったり、抽象的な言葉の場合は問題があります。
 自分では現在よく知らない言葉でも、その言葉自体には広く深い意味があると思ってしまうので、変に説得されたり、他人が説得されることを期待したりします。
 そのため、「構造改革」とか「国際社会」、「国際貢献」といった漢字語や、「コンプライアンス」、「アカウンタビリティ」などといったカタカナ語などが、具体的な意味が分からないまま頻繁に使われたりするのです。

 
 


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