-創価学会基礎知識・その14の(4)- 「財務ってなんですか?」
【「白バラ通信 パンドラの箱」コメント欄】より
★市民と報道と金権支配
これでは、メディアの中立性と、特定の宗教に肩入れをしてはならないという不文律を自ら犯すこととなり、客観性に欠けた記事の掲載となり、引いては、誤解を招く結果となるのではないかと疑わざるをえない。
不偏不党の揺らぎが報道に与える影響は、民主主義の根幹ともいえる、国民の「知る権利」を蝕むものとして、図り知れない不安と脅威を及ぼすことにあると言わざるをえない。
どこまでも自分に都合のよいことだけを言い立て、事実を曲げ、歴史の改ざんまで図る手口をプロのジャーナリストが知らないはずがない。
要は各社とも、印刷料、広告料による金力支配に膝を屈したのである。
言論、編集の自由より、営業の自由を優位に置くメディアの腐敗にほかならない。これでは、選挙で票欲しさに理想・理念を捨て、創価学会に擦り寄る政治家となんら変わりはない。
『金なるのであれば 毒まで食らう』
大手の新聞は、一昔前までは、社会の正義と真実を読者に提供するという高い見識があるように考えてきたが、こんなことでは、新聞に書かれた記事の中にどこまで真実があるのか、果たして信じてよいものか、根本から考え直さねばならない。
国民の信頼を自ら捨てて、資金源に対して都合のよい記事を書き続ければ、日本の国から正義がなくなるということを意味している。
「不偏不党」のゆらぎが報道に与える影響は、必ずしも”提灯記事”の形で現われるものではない。それゆえに、舞台裏は見えにくい。
そのことについて、故・新井直之氏は次のように提言している。
「ジャーナリズムを批判する時に欠かせない視点は、『どのような記事を載せているか』ではなく、『どのような記事を載せていないか』なのである」と。
本来、新聞をはじめメディアは、公正な記事を載せることが使命であり、それが読者の喜びでもある。真実を知らせることができず、国民をバカにしたような新聞、テレビ等のメディアを誰が喜ぶであろうか。
最後、今ひとたび、小説「人間革命」第二巻の池田大作氏の言葉を引用したい。
『 ・・・・、ある人は利口気に言う。布教にラジオを使うべきだ、テレビを使うべきだと。・・・・、俗に言う、PRなど、学会には絶対に必要ないのだ。それこそ、多くの「新興宗教」の取るべき、「悪質な企業宗教」の手段にほかならない』
創価学会は、今日、ラジオ、テレビを大いに利用したPRを大々的に展開している。とんでもない「悪質な宗教企業」とは、創価学会ということになるが・・・。
私も創価学会のことを調べる前は、メディアが嘘をつくわけがないと無条件に信じていました。
それが今では「マスコミを信じてる?バカかw」てなもんですよww
新井氏の「どのような記事を載せていないか」とは、まさにその通りだと思います。
ていうかマスコミが公正・中立でないなんてことは戦後から既に始まっているんですが。
ここを読んでいらっしゃる方でも、民主党政権時と今の自民党政権時で、同じことだが記事になっていることとなっていないことを比較したことのある方は少ないでしょう。
今は便利な世の中で、そういう比較を展開しているようなブログが結構あったりするんですよ。
そういう事実を知っていくと、メディアとは「偏向ありき」であることが容易に分かります。
とあるブログで書かれていたのですが、多くの新聞やテレビメディアには一種の「帝王学」がある、と。それはつまり、大衆はバカであるということを前提にした考え方です。そのバカをどのように意図的に誘導するか、という「帝王学」です。
そして今、ネットの普及で、かなりマスコミの偏向報道・捏造報道が知られることになってきましたね。多くの情報に触れるようになった。それは大衆のレベルアップを意味します。
しかしマスコミは過去の栄光に縋る的な、今までの成功体験からの手法から抜け出せず、同じ過ちを繰り返しそれをネットで晒され信用を落とし続けている、というのが現在の状況です。
最早一部とはいえ、若い世代を中心にマスコミの上を大衆は行っているのです。
大衆を見下していることを前提に報道していたマスコミは、その事実にさえ気づかない、というか気づきたくないw
そうして賢くなった大衆は、マスコミの歪曲した報道に簡単に騙されることなく、マスコミ報道に踊らされないということは創価学会が表立って宣伝しているような宗教団体ではないということも周知されていくということですよ。
どうあっても衰退は免れ得ないという、良い傾向ではないですか。
情報の浸透速度は加速度的で、支配していたい側もそれなりに対抗策を弄することもあるでしょう。
しかしそれはもう手遅れの域に来ていると思います。一度目より二度目の方が騙すのは難しい。
目覚めた人をもう一度信じ込ませるのは、ハードル跳ね上がりますからね。
メディアや創価学会に対して油断は禁物ですが、衰退確定と感じているのは私だけではない!はずだ・・・w
今日の聖教はツッコミどころ満載です(笑)
1面には相変わらずの名誉称号ネタが。
そもそも今日は名誉会長の入会記念日。
私はあえて入信とは書きませんわよ~(笑)
その記念すべき日から未聞の広布旅へと出発した名誉会長を讃えてモンゴル人文大学から名誉博士号の授与が決定したんですって。
聖教には「きょう8月24日、池田SGI会長の入信66年を迎えた… 」とあったり、【寸鉄】にも
「名誉会長の入信記念日を世界が慶祝。 師とともに広宣の大遠征へ決意新た」とあったり。
また3面の【随筆 我らの勝利の大道】はタイトルが
「地湧の誉れの『八・二四』」でした。
いつものことながら名誉会長がリアルタイムで書いたかのような文面。
「…運命的な出会いから十日後の八月二十四日、私は入信したのである…」と。
「入信」「入信記念日」と名誉会長だけは昔と同じ言い方のままで、会員はと言えば「入会」「入会記念日」と言い方が変わったじゃないですか。
変な話ですよね。笑えるのはその随筆の次ページに
「わが家と私の入会記念日」と言うテーマ発言の記事があるんですよ。
タイトルはまさに「入会」
昭和30年など大昔に入会された方などが投稿されてました。
その文中はすべて「入会」となってました。
そういえば学会は宗門のことを「僧俗には隔たりがなく平等なはず。なのに坊さんが威張って上から目線で信徒は見下している」と散々言ってましたよね。
私が思うに 学会だってトップの名誉会長だろうが無名の一会員であろうが上下の差別なく平等でしょうにね。
だったら全員同じ「入信」か「入会」に統一するのが筋と言うもんでは?
つまらんこと言ってるな!と言われそうですが、それひとつ見ても名誉会長は雲の上の人、お前たちとは違うんだと言いたげですよね。
そうそうその随筆に写真が2枚載ってましたよ。
出た~~! 1枚は夫婦ツーショット。 軽井沢の研修道場にまだいたんですかねえ。
ベランダ?で椅子に座り前回と同じ衣装で紫色のおそろのスニーカー履いてます。奥さんは満面の笑み、名誉会長はイマイチ無表情…
おかしいのは前回はその軽井沢の研修道場で「今月7日」とあったのに、この写真は 「今月、長野研修道場で」と説明書きがあるんですが何日なのか明かせない理由でも?(笑)
もう1枚は例のあれ、カートに乗ってる写真。 コスモス畑の中を三男さんが運転し後ろに夫妻が。
名誉会長は左手を窓から出してサングラスしてますね。
小さくてよくわかりません(笑)
去年もゴルフカートの写真が出ましたが、今回は車全体が写ってるので へぇ~こういうカートだったのかと。
池田ファミリーの避暑はまだ続行中?
こんばんは☆
いつもツッコミどころ満載なのに、今日は更にですか!
池田氏の「入会」記念日なのですね。そりゃツッコミネタも豊富ですわなw
同じ日の紙面で、「入信」と「入会」がちゃんと区別されているということは、かなり意識的にこの語句を使い分けていますね。
池田氏が「入会」だと自分が作った学会に入ったことになるので、そこは伝統仏教に「入信」したというハクづけのような印象操作なのでしょうね。
で、学会員さんたちは「俺(池田氏)が創った学会に入ったんだよな?」という感じですかw
日蓮正宗時代に学会に入った方が「入会」とされているのですから、破門前・後の使い分けではあり得ませんしね。
この数年、既出以外の池田氏の写真は、出てきても無表情ですね。
聖教の写真を見て「お元気だ」としている学会員さんたちは、この表情の虚ろさには何も不安とか感じないのでしょうか。
何も思わないのだとしたら、相当の感受性と洞察力を失っていることになるかと思うのですが、そちらの方が心配になってくるw
軽井沢でのカートドライブは今年も遂行ですか。
もしかしたら去年撮ったやつの使い回しでは?
テレビの3本撮り(1日に3週分収録)とかみたいに、衣装チェンジして来年と再来年分くらいまで撮ってあるのかも!
そんなことをしていても不思議ではないと思わせる創価学会の不思議w