遠野に行った時に、タゴールの「死生の詩」をホテルで読んでみたいと思っている。鎌田實先生の猿まねだけど。ま、いいじゃないか。自分探しだから(^_^)
旅はいい。日常生活から離れることができる。今さら、自分探しの旅なんてぇもんはない。できない。もう十分自分探しはやってしまったからである。
自分はなにものであったのかというと、悪党であったとしか言いようがナイ。笑ってしまうくらいに、つまらない男であった。
定年まで仕事はやったから、いわゆるアイデンティティーというのはあった。でもそれだけである。仕事イコール自分ではなかったからである。そう思っている。
今もそうだ。爺イコール自分ではない。
ところがだ。
これからボキは死んでいく。病気かもしれない。事故かも知れない。なんだかわからないけど、死ぬことだけは間違いがない。
その時にである。自分はなんだったのであろうかと疑問に思うことはないのだろうか。そういう疑問が最近あるのだ。
ガンで絶望的な状況になったときに、ボキは自分を受け入れることができるのだろうか。
最初は絶望し、自暴自棄になり、やがて受容していくとキューブラー・ロスは書いている(「死の瞬間」)。しかし、これホントウだろうか。
受容なんてそんな簡単なもんではないだろうというのが、前提にあるからである。
どうなるのか、そんなことはわからない。
わからないから人生が楽しいのである。しかし、さらに自分が何者であるのかというのも、まだまだわからないではないか。
まだボキは「小僧寿司」である。そう「小僧」なのである。未熟者である。熟していない。熟しきって腐ってくる場合もあるだろうけど、まだまだ実が入っていないのである。
カスカスなのである。
空洞である。
特にアタマが。
わはははっははははっははははっはははっは。
だから旅に出たいのである。
鎌田實先生は、東北の遠刈田温泉のだいこんの花という旅館をイチオシしていた。「本当の自分に出会う旅」(集英社文庫)で紹介されていた。
ロビーに囲炉裏があって、甘酒が出迎えてくれるそうな。おもてなしの心が行き届いているのだそうな。旅館の敷地内に農園があって、そのおすそわけもしてくださるそうな。
いわゆるロッジ形式の旅館である。
その旅館で鎌田實先生は、タゴールの「死生の詩」を読むのだそうな。
ここに到って、ボキも読みたくなったのである。タゴールである。「死生の詩」というのがいい。まだボキも読んでいないからだ。しかも医師の鎌田實先生が読んでおられたから、光る。死生の時を見つめてこられた医師であるからだ。
そうすると、ボキはまだまだ自分をつかめていないではないか。
そう思った。
タゴールの「死生の詩」は県立図書館から借りる。今日、用意されているだろう。借りて、気に入ったらAmazonから買うつもりである。
来月、遠野に行ったときに、ボキもタゴールを読みたい。
猿まねだが(^_^)。
さ、今日は退学した某大学に行ってくる。中国語講座がある。午後から。
さいきん、シャドーイングにチャレンジしているからなんとなく中国語もおもしろくなってきた。どうせ趣味である。学ぶことがである。
ヾ(*´∀`*)ノ