と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテスト その1

2017年05月06日 14時17分10秒 | とーま君の流儀2017
鎌田實先生のエッセーで知った国、ベラルーシ。
行ってみたいですねぇ~~~。
ちょっと無理かもしれないけど。
 


2016/01/20 に公開

2016年1月9日、第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテストが開催されました。
1.ズラータ・ナイジョン「学校の仕事」
2.アリーナ・カプトゥル「アイスホッケー」

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第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテスト その1

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ジジイの楽しみは・・・・・・・なんにも無かったりして トホホ

2017年05月06日 14時03分10秒 | とーま君の流儀2017

ホントは、楽しみのために、生きているんですなぁ~~~~。ボキの場合。

 

 

孫が帰ってしまった。毎度のことながら、若干の寂しさを感じる。孫がいたこの4日ほどは、なんもできなかったがそれでよしである。ジジイの唯一の楽しみでもあるからだ。

それしかないのかと聞かれてもいい。そうなのだ。それしかないのだ。ボキの楽しみは。

わははっはははっははっはははは。

思うに、人生は楽しむために生きているのだ。楽しいことがあるから生きていられる。普段、どんなにつまらないこと、嫌なことが多くても、ちょっとした楽しみがあればそれでいいのではないのか。

そういうのが形を変えて、出世欲とか名誉欲とかに姿を変えていっているだけである。

だから、出世とか名誉とか無縁になったら、後は楽しむだけである。楽しいから耐えられる。どんなに苦しくても、耐えられるのである。

あるいは、人生はビューティならばそれでいいのである。楽しいのである。ビューティフルということは、美しいということだから、個人によって受け止め方が違っている。人それぞれなのである。

それが「~~~~でなければならない」とやっちまったら、アカン。

人生は楽しまなくちゃならないと思い込んだら、アウトである。ノイローゼになってしまう。楽しんでいない自分を発見して、あれこれ悩んでしまったらそりゃイカン。

要するに「受け止め方次第」なのである。許容と言ってもいい。それができるかできないかということなのだ。

知人からメールがきた。ある大学でゼミを担当している先生が、大学から去らなければならないということで院生達が騒いでいるという。

いろいろと原因はあるらしいのだが、そのことにはふれない。

しかし、先生が去ったからと言って、騒ぐ必要があるのだろうか。

先生がいなくなったら、学位を取れない自分が困るから騒いでいるだけではないのか。

そうなのである。自分が困るからというその一点に限って原因があるのだ。

自分が困ろうと、他人が困ろうと、ボキには関係ないではないか。

そもそも学問をしているというのは、楽しいからやっているだけなのではないのか。だったら、先生が替わろうとノープロブレムなのではないのか。

師匠と弟子の関係というのは、利でもって動いているのではない。師匠と思ったら一生涯師匠であって、師匠がどうなろうと師匠は師匠である。弟子は弟子である。少なくともボキはそう思っている。

たとえ、師匠に捨てられても師匠を恨むことなかれ。能力のなかったオノレを恥じるべきであるとシミジミ思っているのだ。

ボキの場合は、能力がないと「受け止めた」から、某大学を中退したのである。それしか評価もいただけなかったからでもある。しょうが無いのである。それで去ったのである。

しかし、自称研究はずっと続けている。原稿書きもしている。院生時代よりかなりペースダウンしているけど。

それが楽しみであるからだ。

それでいいと思っているし。

さ、これからgymにでも行ってこよう。

昼食を挟んで、ずっと読書していたから。

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月5日(金)のつぶやき

2017年05月06日 05時01分31秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/