教育というものが、なぜ広く議論され、社会全体の問題になっているのだろうか。そういうことをふと思うことがある。
そして、それは医療問題の取り上げられ方と同じような傾向を持っていると感じるのである。
医療では、脳死と臓器移植やインフォームド・コンセプト(説明と同意)とか、多くの緊急の問題が急に浮かびあがっている。脳死と臓器移植は、教育と関わらないとしても、説明と同意というのは、教育にも当てはまるような気がするのである。
医療は臨床の世界である。教育もまた臨床の世界であるような気がするのである。多くの生徒たちは、誰一人として同一ではない。成績優秀者も、そうでないのも質的に同じなのではない。スポーツの得意な子もいるし、そうでないのもいる。屁理屈の好きなボクのような子もいるし、素直な子もいる。つまり、実態が違うのである。それぞれに個性がある。
医療関係者と同一レベルで仕事をしているとは言わない。レベルの差はわかっている。また、内容も異なっている。それを無理矢理同一だと言っては、ボクの頭の論理構造が破綻しているとしか言うことができない。
いくらなんでもそこまでは言わないし、言えない。
しかしながら、いろいろ議論されながら、医療も教育もどうして大多数の人々を納得させられるような回答を提供できないのであろうかと思うのである。
医療も教育も、近代文明の爛熟と発展によって、もの凄いスピードで発展をした。居住地にも超近代的な大病院がある。12階建てとか、およそこんな田舎でこれほどまで医療体制が整っているところは無いであろう。最先端の大病院なのである。こんな土地にある方が不思議なくらいである。新しいし、快適である。そういう時代であるからこそ、全国各地で医療問題がやかましく議論され、隠れていた多くの病気や、問題点が顕在化してきた。これは医療と教育の両者に共通している。情報公開ということが言われるようになったこともある。
医療と教育への関心が広く一般化したとも言うことができるだろう。それまでは、お任せという面が医療と教育にはあったのが、そうではなくなったのである。ま、このことについてはボクは必ずしも賛成ではない。
入院した時は、ドクターに任せるしかないし、あれこれインターネットで調べることはするが、根本的に自分で自分を手術することはできない。あるいは、教育においても、先生に学ぶことを拒否しては、なかなか学ぶことはできないのである。
手術したことが多少なりともあるが、麻酔をかけられているのに、自分で医師にあれこれ指示をしていたらマンガである。ははははである。
教育だって同じである。全部を自分で指導できるなら、おやりになった方がよろしい。しかし、現実的には不可能である。他者からの知的な文化的スクリプトを贈与されて、はじめて知識は身につくと思うのである。
そろそろ問題点について述べたい。教育についてである。
教育もまた臨床の知であるならば、以下の3点について考えてみたい。
①教育への幻想
②教育への妄信
③教育の陥穽への無自覚
以上である。
①については、教育を受けると誰でも知者になれる、あるいは徳の高い人、さらに体力のあるアスリートになれるという幻想である。このことがいかに不可能なことであるかは、経験上だれでもわかっていることである。秀才や、天才が、真の意味で知者であるかというとそうではないことを我々はよく知っている。あるいは、自称秀才・天才が徳の高い人であるかというと、そうではないことの方が多いことを我々は知っているのである。しかしながら、努力をすれば誰でも天才になれるということを平気で教育は期待されるし、そう要求される方も多い。そうではなくて、相対的に自己調整機能にいかに優れているかということを、問題にしたい。つまり心身のバランスということである。健康でなくては、いかな天才といってもいかがなものかと巷間言われるのはそういうことであると思うのだ。
②についてはどうだろうか。医学も、教育も100%完全なのであろうか。治療をしたから、あるいは教育をしたから、100%完治したり、教育的成果が上がるのであろうか。そういう妄想を持って、我々は過ごしていないだろうか。だから進学校教育というのは、不安定なのである。進学数とか、進学率というのは相対的なものであり、少なくとも永遠不滅の数値ではない。妄信をしてはならない。神のようなものではないのである。絶対ではないのである。
③については、あまりにも科学的に特定の病因(医学的には)を、教育においても追求しすぎなのではないかということである。老化ということも、そうである。悪化した内蔵を切り取れば完治するわけではないだろう。老化ということは、身体的なシステム全体がうまく機能しなくなることであって、部分的な切り取り手術をしていれば、すべてがうまく機能して完治するというものではないはずである。科学的であるから、医療技術も、教育法方も間違っていないというのは「妄信」である。どこかで間違っていたらなんとするのだろうか。教育にも落とし穴はある。たくさんある。しかも現代の学校制度は、たかだか100年ちょっとである。そして、そういう落とし穴を見ようともしない。避けて通っているとしか思われない。
最後に言いたいことがある。
繰り返しになるが、教育というのは、システムとしての全体を言うのであって、部分的なことではないということである。テストの点とか、なんとかとかという問題ではない。
昔の人はいいことを我々に教えてくださったかもしれない。「知・徳・体」のバランスのとれた発達を言っている。これぞ究極の真理であると思うのだ。
※中村雄二郎著 「臨床の知とは何か」 1992年 岩波新書 を読んでの読書感想文
おはようございます。10:00から新春特訓講座で塾へ。ははは。あと二ヶ月くらいしかできないから、全員の合格を祈りますなぁ・・・(^-^)/
凄い!100歳だって@[放送大学の大学生になってみました! + 学割のメリット + 日本一!100歳の大学生と会う。] imag035.exblog.jp/14731228/
なにをやってもアマチュアですからねぇ。だから勉強するんでしょうけど。完成したって感じがまったくこれまでないんで。・・・当たり前かそんなことは。