さらには立身出世主義が明治維新以来はびこっている。先日書いてみた、「なぜ地方は疲弊するか」という愚生のブログの記事は、そういうことを風刺したつもりである。競争、競争、競争の世界である。
ある青年と先日話をしたときも、オレはいかに能力があるか、会社や組織にいかに貢献しているかということばかり話をしていた。
愚生は、ふんふんふんふんと片方の耳で、聞いたことがあるなぁこんなことはとか、あんまり無理するんじゃねぇぞぃって思っていた。
武道で考えてみよう。
武道人で、オレは能力がある、いかに柔道界に貢献しているかってなことを自分で云うやつはいない。そんなことを云っていたら、素人である。
弱肉の方は、滅びるしかないのか。
そんなことはない。
弱肉の仲間は、力をあわせつつ強者に対抗して生きてきたのである。これまでの民衆の歴史がそれを示している。
愚生も弱肉である。食われそうになったことは山ほどある。でも食われなかった。食ったこともないけど。
愚生も含めて、庶民は相互扶助的な行動や思想を持たないと、強者に対抗できないのである。庶民の歴史をさぐることは、そうした庶民の伝統や意志を確認することでもあったのだ。だから、愚生は中世の歴史に惹かれるのである。差別の根本問題もそこにはある。また、芸能のルーツもそこにはある。戦いに明け暮れたもののふたちとは違った世界が、あるいは優雅に和歌でも詠んでいた人種とは違った生き方があったのである。
弱いものは群れをなして生きるしか無かったときに、相互扶助の考え方が自然発生的に出てきたものであろうと思っている。
そうした考え方から、歴史を文学を見直してみること。これこそが、庶民である愚生のこれからの課題であるような気がするのである。
愚生も含めた庶民がどのように生活をしてきたのか、ということに関心がある。あるいは道徳的な価値というものも、もしかしたら昔は今と反対のものではなかったのかと思うようになってきたのである。よばいとか、祭礼とか、通い婚とか、婿取り婚とか、嫁と姑の対立とか、現在云われているようなこととちょっと違うのではないかとも思っているのである。
弱者は村落共同体の中でどのように生きてきたのだろうか、ということを考える。しょっちゅである。その中ではいろいろと問題もあるのだと思う。人間関係のしがらみとか、経済問題のここと、遺産のこと、隣近所のこと、子どもの教育のこと等々あげたらきりが無いくらいであろうと思う。
それでも弱者は生きていく。
粘り強く、したたかに。
いいもんである。
まだまだ日本も捨てたもんじゃないですな。