適当に快適

の~~んびり、充実した日々を過ごしたいなぁ。

自己概念

2010年09月24日 12時58分27秒 | Weblog
あなたは自己概念に操られている。

私たちの自己概念は、私たちの信念でつくられています。自己概念とは、今までに自分が身につけたすべての知識や経験、決断、情報、アイデアなどを1つにまとめたものです。ひとたび、自分が何かを真実だと受け止めれば、それが真実か否かに関係なく、自分はその情報に基づいて行動します。困ったことに多くの人々は自分自身に関する否定的な情報を、真実であるかのように受け入れています。しかし、ほとんどの場合、この情報には根拠が無いのです。何であれ、自分が多少なりとも制限されている、あるいは妨げられていると感じたら、その意見を注意深く調べてみて、実際に根拠や妥当性があるのかを解明しましょう。「あなたよりも賢明な人、また優れている人はいません。もし誰かが、あなたよりも上手にできるとすれば、それは単に、あなたよりも先に鍵を開ける番号の組み合わせを知っていたとか、処方箋を持っていたとかにすぎません。」とこう言う心理学の先生もいます。また、「他の誰かがしたことは、あなたも理にかなった範囲で同じようにできるのです。」とも言っています。普通の人は、自分が持って生まれた潜在脳力の10%以下しか使っていないと言われています。自己概念と潜在脳力との間には直接的な関係があります。そのため、もし自分の自己概念があるべき姿よりも低かったら、潜在脳力は十分に発揮されていないと言うことになります。私たちはどれだけ成功しているか、どれだけ成功できるか、どれだけお金を稼げるかに対する自己概念を持っています。私たちの自己概念は、自分が実行するすべての事柄における自分の実績に先立って、それを予言していると言えるのです。自己概念に操られるのではなく、自己概念を操りましょう。
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言霊

2010年09月14日 12時58分43秒 | Weblog
言葉に出して言ってみる。

先日、テレビで大阪では飲食店の帰りがけにお客さんがお店の人に「美味しかった」と言う文化があるということを紹介していました。東京でも「ご馳走様」くらいは言いますが、それとは違うなと感じました。さすがは食い倒れの街、といったところでしょうか。インタビューされていたオジサンは「人として当然!」とまで言い切っていました。形式的な挨拶みたいな言葉に比べると、食べ物、作った人への感謝の意味も含めて素敵な習慣だなと思いました。形式的な挨拶というと、例えばスーパーやコンビニなどに入った時に、店員の方がにこやかに「こんにちは」と言ってくれる場面をよく見ますよね。この時大概の人はそれには応えずに無表情でお店の中に入っていきます。これって日本ではよく見かけるシーンであり、だからどうしたのと言われそうですが、海外の人から見るとこれはとても異質に見えるのだそうです。「お早う御座います」「こんにちは」と言っているのに何で応えてあげないのだろう?何か仲の悪い特別な感情があるのだろうか?と、思ってしまうそうです。これを聞くと日本人の私もビックリしてしまいました。(苦笑)そうかぁ、なるほどね、確かに言われてみればそうだよなぁ、と。そう思って外国の方を観察してみると、ちゃんと笑顔で応えている!文化の違いなのかなぁ、なんて考えましたが、でもきっと笑顔で挨拶を返してもらったコンビニの店員さんは気持ちが良かったのではないかと思います。自分がされたら気持ちがよいことは他の人にもしてあげるべきですよね。言葉に出して言ってみないと気持ちが伝わらないという事もありますからね。冒頭の「美味しい」という言葉ですが、あるスポーツトレーナーの方が「「美味しい」と言うことで栄養の吸収が良くなる。」という話を聞きました。例えば、パワー系アスリートの必需品として摂られているプロティンパウダー。少しでも効率良く摂取するには、飲んだ後で「美味しい」と言うと吸収率が良くなる効果が見込まれるらしい、と言うのです。ある種の自己暗示なのですが、摂取したものが身体に良い影響を与えると刷り込むことで身体がより多く吸収しようとする反応が進むそうなのです。なるほど、言葉に出して言ってみるものですね。そこで頭に浮かんだのが、夏の暑い盛りにビールを飲んで「うぅ~、うまいっ!」と唸っている、あれです。なんとなく唸ると味が身体に染み渡る感じがしませんか?試しに飲んで唸らずにいてみると美味しさを満喫できないとでもいいましょうか、何か物足りない気がしませんか?(笑) 摂取したものをより味わうために誰に言われたわけでもなく、自然のまま知らず知らずのうちにやっていた行為なんですね。まさに自然体。そこで一番重要なことを感じました!もしかすると「美味しかった」だけでなく、「楽しかった」や「面白かった」と言うことで毎日が今よりもっと「楽しく」、「面白く」なるんじゃないかと言うこと!みなさんどう思いますか。
コメント (2)
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早めの手当

2010年09月02日 19時05分29秒 | Weblog
スタートの段階では、もともとの能力の差ではなく、ちょっとした心がけや気づきによって大きく飛躍する事が出来る。

「伸びる20代は、陰口を言われる側。沈む20代は、陰口を言う側。あなたは?」こんなコメントをネットで見つけました。ビジネスの指南書みたいなものでしたが、何だか気になったので読んでみると、「二〇代の過ごし方で、その後の三〇年が決まる」との事。企業コンサルの方が書いた文書のようなのですが、その方の経験で、とくに気になったのは、クライアントの将来を背負う二〇代の「のびしろ」の大きさの違いだそうです。会社ごとにちがうだけではなく、同じ社内でも雲泥の差があったそうです。入社した当初は、ほぼ同じスタートラインだったにもかかわらず、次第に目も当てられぬほどの差がついていく、と。そして、それがそのまま企業の盛衰を決定づけることになるのだそうです。二〇代の過ごし方で、その後の三〇年が決まる、といっても過言ではないとまで言っています。二〇代でいったんついてしまった差は、二度と取り返しがつかないとも。人生をマラソンに例えての話もしていました。「実際、人生はマラソンである。」しかし、「最後までどうなるか分からないから、人生はマラソンである」という解釈は間違っている、と言っています。そうではなくて、「最初からトップ集団にしがみついていなければ、トップになれる可能性はない」という意味において人生はマラソンなのだとか。「最初のうちは、のんびり行こうよ」と呑気なことを言っているようでは、すでに周回遅れのリストラグループだと言っています。これからの時代、二〇代でのんびりしている人が、三〇代でその会社に残っていることは、まずない、と。将来、出世を目指すにせよ、転職するにせよ、独立するにせよ、二〇代での仕事の姿勢が、そのままその後の人生を決定づけるのだとか。かっこいい三〇代を送っているビジネスパーソンは、二〇代の過ごし方の結果であり、かっこいい四〇代を送っているビジネスパーソンは、二〇代と三〇代の過ごし方でそうなっているのだ、と。三〇代や四〇代になって慌てても、同じ土俵で戦う限り、二〇代で実力を蓄えたビジネスパーソンの部下にならなければならないことは、目に見えていると言っています。どうせなら、かっこいい三〇代や四〇代を送るために、二〇代をきちんと一生懸命に生きたい。二〇代で決まるのは、ビジネスの世界のみならず人生すべてにおいて共通すると言っています。三〇代になると、もう一人前と見なされて二〇代で許されたミスも許されなくなってしまいます。どんなにがんばった人でも、三〇代で必ず「もっとやっておけばよかった」と後悔するのが二〇代だ、と。後悔をゼロにできる人間なんていない、とも言っています。その後悔の度合いを少しでも小さくなるようにして、三〇代に大きく羽ばたいてほしい、と。三〇代や四〇代とは違って、二〇代のうちはもともとの能力の差ではなく、ちょっとした心がけや気づきによって大きく飛躍する事ができるのだから、と。二〇代の方へのエールのようですが、三〇代や四〇代で出遅れた人が読むと結構ショックだったりして。確かに最初のリードが大きな差につながるとは思いますが、やり始める事に遅すぎる事は無いと思います。マラソンだけれども最後の大どんでん返しの大逆転が出来るのが人生なのではないかと思うのですが。
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