ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

真田山陸軍墓地

2013-09-13 05:00:00 | 大阪にて

宰相山公園の緩やかな階段が円を描いて南から西へと向かっていました。公園がそのまま続いているのか、Googleの地図上には何も記されていませんが、いやこの区画には三光神社も宰相山公園も記されてなかったので、この先に何があるのか全く分からないまま散策の続きで少しづつ登って行ったのです。見晴らしが良くなってくると何か異様な風景が飛び込んできました。

       

一面が墓石だらけ、びっくりするような墓場です。写真は出くわした時の右(南)部分、真ん前(西)の方、そして右(北)の方です。180度見渡す限り墓が並んでいるのです。大阪市内にこんなに広い墓場があるなんて初めて知り、ホントにビックリです。この近辺は寺町も近く、お寺の多いところですが、一宗一派のお寺にあるお墓の規模ではありません。ずっと歩き回っていると建物があったので、近寄ってみると『真田山陸軍墓地維持会』の事務所のよう、それでここは陸軍墓地であることが分りました。

大阪歴史教育者協議会という団体のホームページを見ると、この真田山陸軍墓地についてのことが詳しい、広さは15000㎡ほどあり、何故だか5299というようなきっちりした数字に以上をつけた数字、それなら5300基以上にすればいいのにと思うのですが、それほどの数の個人墓碑と43000余りの遺骨を納めた納骨堂があるとのこと。先に知っておれば納骨堂も探したんだろうけど、ホームページを見たのは帰ってきてからですから、納骨堂の写真は有りません。

             

明治4年に造られたと言うこの陸軍墓地、西南戦争から日清・日露戦争を経て、満州事変のことまではホームページに記載されています。西南戦争なんて最終的には九州南部で行われた内戦ですが、戦死者が大阪に祀られているなんてすごいですね。

写真は一番奥、西の端になります。大きな石碑が建っており、おそらく上級者の碑なのでしょう。何処かの神社の神木と見紛うほどの大きなクスノキです。砲弾の飛び交う戦場で死を賭して戦った兵士は太陽の照りつけるもとに放り出され、砲弾から遠く離れた基地で戦況を見守るだけのエライさんはこうやって大樹の影で守られるのです。爆笑問題の田中君が石破防衛大臣(当時)に「あなたたちは戦場には行かなくていいから」発言をし、喋っていた大臣を黙らせたエピソードを聞いたことがありますが、そういう構図は今も昔も(今は未だ徴兵制はありませんが)同じです。

                       

この樹はヒマラヤスギだと思います。これもかなり大きいので、開設当時から茂っていたのでしょう。

       

お墓の写真ばかり載せても仕方ないので、縮小したものを並べています。お墓は九つのブロックに分かれて収容されているようですが、戦争毎に分けられているようでは無く、身分別に分けられているようです。中には徴兵されてすぐ病死などという人の墓もあるし、日清戦争では兵役でなく兵站輸送などに係わった軍夫(民間人)など軍の記録に残らない人たちの墓が900基もあるそうです。

戦争遺跡があるという三光神社に来たお蔭で、思わぬ戦争遺跡に遭遇することが出来ました。

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