創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

出版できた理由

2017-10-14 04:27:01 | Weblog

 おはようございます。

 昔話を書いて、電卓博士の思い出を書きたくなりました。今日も脱線です。しかも前置きから。女子栄養大学で非常勤講師をできたのは、当時、確かもう顧問だった佐々木正様のお蔭。孫さんが成功したのも佐々木氏のお蔭。私の最初の教科書は、孫さんがパソコンや情報教育の本の販売をしていた頃でした。

 佐々木氏は取締り役としてソフトバンクに出資していたよう。この本の製作中の時に、COMDEXを買収したジフデービス社を孫さんは買収し、COMDEXを取得。アメリカ進出の足掛かりを掴みました。周囲は進出に反対したと、佐々木氏から聞きました。

 液晶の若旦那が首になった時、リリーフの社長は佐々木氏のカバン持ちだった人。その人が社長秘書室長の時、私は非常勤と教科書出版のために、社長決裁書を提出しました。二度と社長決裁書を出すな、今回だけ特別だ、と彼に言われました。

 彼の悪口を言うようで、佐々木氏にお願いできなくなりました。2冊目から7冊目は、当時副社長だった電卓博士に許可を直接頂きました。直々に天理か東京で、原稿を渡し、口頭で許可を頂きました。当時の上司に、副社長が許可したと言い、出版。陰で悪口を言われました。おとがめはなし。

 奈良の本部長時代、電卓博士は始業時間のおよそ30分前に社用車で正面玄関に到着。朝一で説明するのが良い、いれば会ってくれる、と事業部長に私は言われました。私は通勤時間1分の社宅。博士が工場に来る日に、始業15分前ほどに、部屋のドアーをノック。秘書さんに面会をお願いしました。誰かと面談中は、後で来てくださいと言われました。誰もいなければすぐ会ってくれました。電卓博士に面談を断られた覚えがありません。企画会議の事前説明は容易でした。優秀な人は違います。

 電卓博士が副社長時代、私が天理か奈良に出張した時、本の原稿を携え、天理の居室を訪れました。これを出版したいと言い、原稿を渡しただけでした。彼はほとんど部屋にいました。暇だ、読んでおく、外の話が分かる、と喜んでくれました。1週間ほどでOKを頂けました。

 博士が任天堂の社長になった時か会長になった時、私は直接電話し、京都の本社にお伺いしました。任天堂に液晶を売り込むという名目で。任天堂の電卓博士にただ会いたかったのが本心。天理時代よりお元気そうで嬉しくなりました。私は3D液晶のプロジェクトにいると報告。彼は液晶を育てた人。元気な私を見て、喜んでくれました。

 今日はここまでにします。

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