源平の勢力争いが、ほぼ決しかけたとき、平家一族は時代の流れに押されるように、最後の決戦を繰り広げます。
義仲が京の都に攻め入り都落ちした平家は、頼朝の情報によって、九州でも受け入れられることなく西国の地をさまよったのでした。九州や長門の国は、かつて平家の武将の納める領国であったのだった。
そして、九州の地を追われて、長門の国で船を手に入れ、屋島まで上ってきたのだった。長門の浦で途方に暮れているとき、かつての領国長門の漁民から船を貰ったのだった。
その後、平知盛は、屋島を起点に瀬戸内沿岸で多くの戦いに勝利し、ついに神戸にまで帰ってきたところでした。
後白河法皇が、和議を提案するというのを信じていたが、それよりも一日早く源氏が攻め込んできたと言います。
平家の陣は
・西の木戸が須磨一の谷の「須磨浦公園」から「須磨駅」までの海岸線。
・東の木戸は、三宮を流れていた生田川の右岸、図で言うと「三ノ宮駅」の文字で隠れている所。
・義経の坂落としが、鵯越になる。鵯越から、一直線に下ると和田岬になる。現在ではこの岬は埋め立てられて、海岸線までは距離がありそうですね。
生田の森の戦いを訪ねてみます。
神戸大丸前にある「三宮神社」は東国武者河原太郎・次郎兄弟が祀られている。地図で見ると、センターと言う文字の「ン」の字のあたりになる。
源氏の一番乗りで頑張った東国武者「河原太郎・次郎」兄弟が討ち死にして、育った故郷に頼朝からの恩賞に預かったという。
生田の森が東の木戸の陣跡である。今は生田神社は神戸で一番の初詣のお参りの人数を集めます。1/9の撮影です。
日没が近くなって、生田神社のすべてが廻れなくなった。境内の位置関係をご覧ください。
ここに攻め入ったのが梶原平三景時の一族だった。彼は頼朝から遣わされた軍監であり、しばしば義経とは争いを起こしている。
彼の三男梶原源太景季(かげすえ)は戦いの最中に、ここの井戸で水を飲んだとされている。
「かじわら井」と岩に刻んである。
楼門の西側には梅の木がある。今は梅の木ならぬ御籤が結んである。
梶原一族が攻め込んでサッと引いたとき、見てみれば源太景季が敵の中に取り残されているのに気が付いた父の平三景時は、敵陣の中へ、再び入っていく。
そこには敵に取り囲まれて獅子奮迅の戦いをしていた景季は、背中に梅の一枝を挿していた、優雅な余裕ですね。
箙(えびら)だったので、その梅を、「えびらの梅」として今に残る。
本殿の背景で、ちらっと樹木が見えるが、生田の森のクスノキである。
左:楼門横の石の案内碑がある。これは江戸の頃のものだろう。
右:折から、満月が東の空に浮かび上がった。今日は市内を徘徊した史跡めぐりでした。
神社の裏手の「生田の森」入口です。神域で厳重に管理されています。
義仲が京の都に攻め入り都落ちした平家は、頼朝の情報によって、九州でも受け入れられることなく西国の地をさまよったのでした。九州や長門の国は、かつて平家の武将の納める領国であったのだった。
そして、九州の地を追われて、長門の国で船を手に入れ、屋島まで上ってきたのだった。長門の浦で途方に暮れているとき、かつての領国長門の漁民から船を貰ったのだった。
その後、平知盛は、屋島を起点に瀬戸内沿岸で多くの戦いに勝利し、ついに神戸にまで帰ってきたところでした。
後白河法皇が、和議を提案するというのを信じていたが、それよりも一日早く源氏が攻め込んできたと言います。
平家の陣は
・西の木戸が須磨一の谷の「須磨浦公園」から「須磨駅」までの海岸線。
・東の木戸は、三宮を流れていた生田川の右岸、図で言うと「三ノ宮駅」の文字で隠れている所。
・義経の坂落としが、鵯越になる。鵯越から、一直線に下ると和田岬になる。現在ではこの岬は埋め立てられて、海岸線までは距離がありそうですね。
生田の森の戦いを訪ねてみます。
神戸大丸前にある「三宮神社」は東国武者河原太郎・次郎兄弟が祀られている。地図で見ると、センターと言う文字の「ン」の字のあたりになる。
源氏の一番乗りで頑張った東国武者「河原太郎・次郎」兄弟が討ち死にして、育った故郷に頼朝からの恩賞に預かったという。
生田の森が東の木戸の陣跡である。今は生田神社は神戸で一番の初詣のお参りの人数を集めます。1/9の撮影です。
日没が近くなって、生田神社のすべてが廻れなくなった。境内の位置関係をご覧ください。
ここに攻め入ったのが梶原平三景時の一族だった。彼は頼朝から遣わされた軍監であり、しばしば義経とは争いを起こしている。
彼の三男梶原源太景季(かげすえ)は戦いの最中に、ここの井戸で水を飲んだとされている。
「かじわら井」と岩に刻んである。
楼門の西側には梅の木がある。今は梅の木ならぬ御籤が結んである。
梶原一族が攻め込んでサッと引いたとき、見てみれば源太景季が敵の中に取り残されているのに気が付いた父の平三景時は、敵陣の中へ、再び入っていく。
そこには敵に取り囲まれて獅子奮迅の戦いをしていた景季は、背中に梅の一枝を挿していた、優雅な余裕ですね。
箙(えびら)だったので、その梅を、「えびらの梅」として今に残る。
本殿の背景で、ちらっと樹木が見えるが、生田の森のクスノキである。
左:楼門横の石の案内碑がある。これは江戸の頃のものだろう。
右:折から、満月が東の空に浮かび上がった。今日は市内を徘徊した史跡めぐりでした。
神社の裏手の「生田の森」入口です。神域で厳重に管理されています。
この時代の戦は、個人と個人の命のやり取りで、そこには美学があるようです。
ただ敵を殺して戦力を削ぐというのではなかったようですね。
粋な武将もいたものですね