先週、中津川の苗木城跡に行ってきた。
なんかの番組で
『木曽川を見下ろす岩山にあり、中山道の往来が監視できる立地』
と紹介されていて、一度行ってみたいと思っていたのだ。
城の縄張りというか案内図。
備え付けパンフレット。イラスト配置などイマイチだが色々とわかりやすいので。
苗木城は苗木遠山氏が戦国時代(1526年頃)に築城。本能寺の変の後、森氏に城を追われるが徳川氏に身を寄せ、関ヶ原の戦い前に徳川氏の指示で城を取り戻す。この功績により、苗木領1万521石の大名となり、明治4(1871)年の廃城まで約270年、12代にわたって遠山氏が治めた。
一般的に1万石の大名は城を持たず陣屋に住んだが幕末期の大名のうち苗木遠山氏のみ城持ちだった。苗木城は写真のように岩山に造られており全国的にも珍しく、昭和56年に国史跡に指定された。
ということで麓の駐車場に車を置いて登り始めた。石畳になった車道などを歩き、最後の駐車場(A1)を過ぎると『足軽長屋跡』があった。
ここから二の丸や天守跡が見える。立てられた看板には『かつての苗木城』として復元CGが掲示されている。
足軽長屋から歩いていくと石畳道などを経て風吹門跡(かざふきもん)へ達する。
ここは大矢倉を北側に配した三の丸への入り口で、今は広場になっておりトイレもあって、観光客の休憩場所になっている。
次に三の丸と二の丸を隔てる大門跡(下の左上の写真)を通り、綿蔵門跡(下の右上の写真)へ。道が登りにかかる。
折り返して坂下門跡(上の左下の写真)。
ここら付近から西方には木曽川、城山大橋、笠置山(上の右下の写真)が見える。
さらに菱櫓門跡から階段の折り返しを経て千石井戸(下の左下の写真)に辿り着く。ここは殆ど山頂だというのにどんな日照りでも枯れなかったと伝えられており、千人の用を足すことから千石井戸と言われた。
今でも井戸には水(上の右下の写真)があった。山頂直下なのに不思議なことだ。またここに本丸口門があって二の丸と本丸との境になっていた。
本丸口門付近には大岩があり(下の写真左上)、それを利用して石垣が造ってある。そして天守跡(下の写真右上)が近づいてくる。この折り返しを登っていくと、いよいよ天守台だ。
天守台の展望台(上の写真)は大岩の上に懸け造りで建てられている。岩に穴を穿って支えられている。
展望台に上がると視界が抜群に広がる。
特に木曽川上流方向と中津川市内である。在りし日には中山道の往来を見張ることができたという。
カメラをズームしてみると上部路トラス橋の玉蔵橋の下流に廃線跡と思しきトラス橋が見える(上の画像右下)。
これは予想通り北恵那鉄道の廃線跡だった。やはり「玉蔵橋」と呼ばれていたそうで、錆具合といいその形といいとても格好いいのだ\(^o^)/
天守台直下に独立した大石があった。『馬洗石』という。かつて敵に攻められ水の手を切られたとき、この岩の上に馬を乗せ、米で洗って水が豊富であるように敵を欺いたことから、この名が付いたそうだ。
最後に設置してあった展望案内写真?
写真?じたい、本日の曇天とどっちこっちのクリアさなのだが、神坂峠らしき鞍部は見えていたし、恵那山の頂上だけが雲がかかっていたのが残念だった。
よう造ったものです。たった1万数百石とは思えん。
ジャン妻は岩村城下にいた時期があるのですが(あまり語りたがらない)苗木は知らなかったそうです。
北恵那鉄道の廃鉄橋も有名ですよね。
ここに詳しく描いていただきありがとうございます。
私の脚ではとても無理ですので。
凄かったです。天守台や途中にある大岩は
ラピュタを思い出すほど大きかったですし
展望もナカナカのものでした。
麓の史料館も紹介しますのでご期待ください。
ジャン妻さん、NHKの朝ドラ『半分青い』のとき
反応されなかったのですか。
麓の標高もそれなりにありまして、麓の駐車場から
実質の標高差は70m程度です。
岐阜市でいうと鷺山くらいのもので、
実際の道程はそんなに険しくないです。
お寺の石段くらいと思ってトライされてはいかがでしょうか。