ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔身辺雑話〕菜園日記 9月20日~30日

2006年10月02日 | 身辺雑話
20060920
あーちゃんと戦場ヶ原を歩く。

20060921
晴れ。
ボランティア活動に協力した宅本便サービスの明細が届く。
ミカン一箱分ダンボール2個分に入れた本は、値段が付いた本98冊、付かなかった本23冊の計121冊だったとのこと。
菜園に出て秋野菜苗に水遣り。
聖護院ダイコン覆土がポックリと膨れている。モグラの通った跡のようなので今後の反復が心配。
農園へ。
市民農大生有志で作った苗の水管理当番。
圃場のナスを抜き、苦土石灰をまいて整地しておく。
聖護院ダイコン、ハクサイは順調に育っている。
ブロッコリーはやや元気なく、秋ジャガのいくつかの苗は顔を出していた。
東側田んぼ側の用水路から長柄杓を使ってバケツで水を運ぶ。
IさんとO夫婦もやってきて各々が圃場で作業。
赤トンボが目立ってきたが、まだ対になって飛んではいない。
帰路、シマアジが安く入手できたので、帰ってから3匹を三枚におろす。小さな簀の子に氷を載せてお造りにして食す。
ビールと冷酒でつついて食べる美味さ。
魚の三枚おろしも数を重ねて、どうやらサマになってきた。

20060922
父母のお彼岸であーちゃん実家ファミリー一族が集合。
酒のあと、二段の博兄と碁。 3子で○、●の結果。

【頭の良くなる「短い、短い」文章術】轡田 隆史 三笠書房
を車中で読む。
著者は朝日新聞OB「素粒子」コラムニスト。「素粒子」は210文字の短い字配りで収めなければならない。
そこに政治、外交、事件などを寸評して描く。
ことばを削ぎ落とし、選び、珠玉のように磨いて書いて読者に届ける。たいへんな仕事だ。
この仕事を8年間、独りで続けてきたということに頭が下がる。
「短文」の見本は辞書にあるとの指摘は、なるほどと頷けた。
 在社中、誰もいない図書書庫の前の短いベンチに座って、空を見詰め、呻吟していた様子の朝刊コラムニストの表情をふと思い出した。

20060923
晴れ 曇り
北海道の最高峰・大雪山旭岳から初冠雪の便り。
午後1時、台風は本土を逸れ小笠原沖を通過中。結局、関東には影響はなかった。
本日の菜園作業。
ハクサイにカンレイシャをかける。
ニンニク用にネギを植えていた場所を整地。
ミズナ種をまく。
あーちゃんは冷蔵庫に入れておいたシュンギク、金町コカブ、ハツカダイコンなどを古い種を播種。

【青い月のバラード】加藤登紀子 小学館を読む。
加藤登紀子は終戦時、ハルビンからの引揚げ者家族の一人で当時3歳だった。「登紀子、一人で歩きなさい 自分で歩かなければ死ぬことになるよ」と母に言われて日本に帰還する。
20年後に東大生から歌手になった。
夫となった藤本は昭和19年、登紀子は同18年生まれだ。
藤本は金のわらじ組の結婚で、この点はジッタンも同様、年齢もそっくり重なっているから親近感を持って読める。
藤本が全学連委員長から”脱藩”した1969年は私も銀座社屋で労組の青年運動をやっていた。
新左翼が街頭へ繰り出し、あの時代は騒然とおおきくうねっていた。
加藤登紀子が"夫との獄中結婚”で話題を呼んだことは覚えている。
2年以上の獄中を経た夫は農ある暮らしを夢見て「大地を守る会」を組織化、「鴨川自然王国」設立と動く。
出生時の暗い傷を背負っても真摯なロマンチストという感じを持った。彼の言う「納豆は地球を救う」は有機農法や消費者グループの運動を通じて得たマジメな信念だったらしい。
獄中体験の場を「食糧は自給でき農薬を使ってはいない。出される麦飯は低カロリーで 冷暖房なしの生活は五感を鍛える」という藤本と歌手として3女の母親として生きる妻の登紀子との間には、すれ違いの危機もあった。
破局を目前にしながらそれを乗り超えて生きた二人の生活がよく描けた。
藤本の酒は痛飲型だったらしく肝臓ガンで死ぬ。魅力ある男だったようだ。

20060924
庭のアオダモが元気なく、ピラカンサも枯れたこともあって造園の加藤さんに電話相談。
テニス。
晩酌時、清水さんから貰った月下美人が妖艶に咲く。
よく見るとまだ2つのちいさな蕾がついている。

20060925
新しく交換した刃で、東側道路際と庭の芝生を刈る。
昼食でスミイカのミソをベースにしたスパゲティを作ってみる。
菜園のバジル葉をつまんで、粉チーズをまぶし、スパゲティには醤油をハラリと落としてみたがこれが大正解だった。
ジョイフルでカンレイシャやその留め具など買う。
レタス苗も購入。

20060926
1日中、流水につけておいたホウレンソウを播種。
恒例の碁仇へ訪問碁。●●の結果。後半のポカが多い。だが、これも実力の内だ。
午後からマゴのカナちゃん来て預かり、夕食は息子一家と楽しむ。

20060927
埼玉文学資料館に電話して作家の安藤はる子さんとの連絡方法を相談する。
父光男にあてた安藤鶴夫氏の書簡の存在に資料館も大きな関心を示す。
学芸員の方に間に入ってもらい安藤はる子さんに電話。父とアンツルさんとの当時の交友ぶり、双方の空襲での被災、埼玉・桶川からの手紙などの話から昭和20年当時の状況をそれぞれ交換して1時間近く話す。
原文の手紙をお返しして、注釈を添えた上で文学資料館に、ご息女の方から寄贈する方向で話はまとまりそう。

20060928
早朝、深い霧があって快晴となった。
レタス、サニーレタスを植える。
千葉の八柱で姉を迎え3人での墓参となった。
昨日の安藤はる子さんとの電話などを報告、ジッタンより14歳上の姉も彼女のことは知っていて喜んでくれた。
あんつるさんからの手紙をコピーして姉に渡す。松戸で会食。

【五十歳から読む『徒然草』】北連一 廣済堂出版 を読む。
作者は読売新聞に「定年前後」と題した長期のエッセーを連載中の人。
もと文芸雑誌の編集をしていた人で、徒然草にまつわる話題に事欠かない物知りの人と見た。
M・K死去の知らせがNとYから突然入って衝撃を受ける。
2ヶ月前に手術せず、当面抗がん剤治療ということではあったが元気な様子なので安心していた。
65歳の人生はまだ惜しい。彼とは36年にわたる付き合いになる。
熊本出身、異色な左翼大衆派の先輩でもあった。
女房へのわがまま、人見知り、思い込みの3拍子揃った男で、時に辟易することもあったけれど、酒はよく飲み長い付き合いだった。
仏壇前で合掌。
当時の面々に葬儀など連絡。北陸富山のHにも。


20060929
今年の米作状況(9月15日現在)は97でやや不良ということらしい。
関東地方は豊作だが8月の台風の影響で佐賀などは74指数とのこと。
夜、アンツルさんの手紙を入力する。
墨書で旧字、字癖もあり判読しずらいところもあったが、どうやら読みこなせた。
M・Kの訃報で佐藤さんから香典を預かる

20060930
晴れ。
市民農業大学の座学。
昨年同様、土と肥料についての講義。
土を人間に例えれば胃袋にあたるとの2時間講義は得るところが多かった。
PH度を6.3に、堆肥と肥料の相関関係などきわめて実学的で参考になった。
講義後、圃場のハクサイ、キャベツ、ブロッコリーに追肥の”命令”があったが来週の個人作業に切り替えることとしSさんの車同乗で帰宅。
少し寝る。
M・Kの通夜に参加。


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