ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔身辺雑話〕菜園日記 10月20日~10月31日

2006年11月11日 | 身辺雑話
0061020
あーちゃんを朝の東京駅に送ったあと、 山手線を一周して読書。
アキバハラの淀橋カメラでIあれこれを見てまわり、上野の西郷さん下の囲碁センターをはじめて訪ねる。(再)

 20061021
隣町の体育館会議室を使って市民農業大学の果樹栽培講義。
講師は鈴木校長。
鈴木さんは地元農業高校の現役教諭だった人だが昨年満期除隊組になった人。
人工授粉での花粉と柱頭の関係や、一品種だけでは結実が悪いケースなどが紹介された。
摘果の大切さ、その時期、果実がなったときの肥料、病害虫などの対策も教わった。
カキやキウイやモモなど10種類の葉だけを示して「これは何?」とのテストがあったがジッタンが答えられたのは枇巴と栗の葉のみ。
飲み仲間の野口さんは10種類全部を答えて、鼻たかだかだった。
イチゴ栽培では親株元近くの” 長男”は植えてはダメ。
次男、三男を植えるとよく育つのたとえ話もわかりやすかった。

20061022
菜園のホウレンソウがぐんぐん成長している。
その周囲を除草。
10月生まれの小学生の孫2人が来たのでその誕生日祝い。
 孫らは図書館に行ったので、午後からテニス。
まだ現役の常連組が集まっていて、いっしょに楽しむ。
 夜、ひさびさの雨。

20061023
小雨の中、碁打ちに佐藤宅へ。
●の結果で一番のみ。
序盤、中盤は我が方が優勢で、終盤の接触戦になると相手の力が勝っている。

 【文系のためのWEB2・0入門】小川 浩 青春出版社 を読む
ビルゲイツのOS中心の時代をWEB1・0とすればグーグル検索を中心としてその余波の現段階を2・0とする。
WEB進化のプロセスが1、2の数値であらわされてわかりやすい。OSの優劣からWEB検索全盛時代へ移行しつつあり、検索連動型広告の仕組みも登場してきたことなども納得がいく。
よく使っているフリー百科事典「ウィキペディア」なども、2・0から生まれた産物ではないだろうか。
ネット業界のトレンドなども簡潔に網羅されていて、なんとなく2・0の時代がわかったつもりの気分にさせてくれたのはありがたい。
2年前、WEB2.0とは?の小集会がNPO・SOHOクラブであって
そこで学んで試しに作ってみたのが現在のブログ「ジッタン・メモ」になった。
時の流れは急流。
シニアも、いかだに乗って、どうにか流れに乗っている。


20061024
夜中、強風と雨だった。
本日も雨。
 夜が明ければ散歩を催促するいつもの犬の声がない。
外の犬小屋、コトリとも音がしない。
こちらが気を使って 朝飯を差し出すとプイと横を向いて奥に引っ込んでしまった。
恐れ多くも主上に対して なんたる態度か。
犬齢85歳を過ぎたとはいえ、黙過しがたいその振る舞い。
呼び出して頭をポコッ。
 終日、寒い感じがしたので3回入浴。
閑日のちいさな温泉気分だ。
 韓国では風速60メートルも吹いたとその後のニュースが伝えていた。
納戸を整理、衣料もそろそろ冬支度だ。

 20061025
このところ一雨ごとに季節感が変る。
一方、日中はかなり暑いこともあり、この気候は気になる。
 菜園のサトイモを試掘したが、種芋が悪かったのか不良なので全部引き抜く。
その後地に種から育てたケール苗を植える。

20061026
晴れ。
農園酒飲み四天王で和戸橋で待ち合わせ、鷲宮の触れ合いコスモスロード、加須の浮野を見に行く。
往復路サイクリングとなった。
杉戸、宮代、鷲宮、大利根、加須と駅間を走るとさすがに尻が痛くなってきた。
これほど長時間走ったことはなかったが若い気分になって秋の終日が楽しめた。
葛西用水路沿いにどこまでも続く赤、白、ピンクのコスモスの群生に驚き、鷲宮神社の宝物展を楽しみ、山田うどんでの生ジョッキー乾杯もまたよかった。
カネはムリだが時間には糸目はつけないわれわれの恵まれたいまの環境の中、最後は久喜から農園に戻った。
聖護院ダイコンと人参を土産に抜いて帰宅。

 プロ野球 2つの涙
 日本ハムが日本一になった。
2つの涙の違いを感じた。
リーグ優勝したとき、ベンチで中日落合監督はひとりだけ涙していた。勝負は終わらずクールに闘う選手の中での涙は、ちょっとだけ違和感があった。
日本シリーズ。
札幌で新庄剛志が最後の打席で泣いた。
それからずっとベンチでも泣き続けていたが、その涙はベンチもスタンドも待ち受けて許して、共感していたものがあった。
2つの涙の違いが、そのまま今度のシリーズの勝敗を分けた気がする。
寡黙で個性的な落合監督の涙、「シンジラレーナイ」とした監督の明るさもシリーズ采配に微妙な明暗を残したようだ。

20061027
近くの生涯学習センターでわが町の歴史講座の3回目。
本日の近世編を担当したのは地元小学校校長だった長堀さん。

江戸時代のこの町はまったくの農の世界だった。
年貢は幕府直轄地であったから直に納めたほか、一部は佐倉藩の飛び地でもあり、また鷲宮神社などがそれぞれ統治していたから、それぞれに年貢を納めていたという。
長きにあたって農ひとすじの生活を送っていた町の人たちが維新を迎え、天子様の登場に目をシロクロしているうちに、明治6年の徴兵令に駆り出され、10年の西南戦争になると埼玉の田舎から出兵して田原坂の激戦で負傷。

山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし

草を褥(しとね)に 夢やいずこ
明けのみ空に 日の御旗(みはた)
                                             (田原坂 歌詞より)
木の葉町の病院で治療したあともまたも熊本、延岡と転戦をくりかえし大阪から無事に帰ってきた一農民の「西南戦争出征記録」話は実に興味深かった。
長堀講師は実際に九州にあって出征記録と土地をじかに照合してきただけに、話はリアルだった。
藩主が幕閣でもあった隣りの関宿藩が維新前に藩論が分裂、杉山対軒という家老が並塚で暗殺された話も、その時を感じさせた。
ちなみに関宿藩はわが翁の出自と関係が深い。この藩の藩士だった。
ちいさなこの田舎町に北葛飾郡ではじめての高等小学校が誕生している点も見逃せない一こまだ。
「2時間の制限では郷土近代の歴史は語りつくせるものではない」と講師は残念がっていたが、おっしゃる通りだ。
また受講したい。

午後から孫娘預かる。

20061028
農園へ。
 人参、聖護院ダイコンを収穫。
 秋ジャガに土寄せ、聖護院には追肥。
 夜、55歳で早期退職したテニス仲間のSを囲んでの壮行祝う会。
Sさんは三菱自に勤めていた課長さんだったが事情もあって早期退職優遇制度を採ったとのこと。
 テニスクラブでの定年者も続々誕生しているが、継続してパート勤務している人や関連社でその後、働く人も多い。
人生いろいろだ。
この道一筋の一毛作型、勤務地は違っても延長線上での二期作型の生き方も多い。
年金生活を基調に菜園、農園で自適気ままに遊んでいるるのは少数派だ。
人それぞれ、まっ、いい。

20061029
徳富蘇峰「終戦後日記」 講談社 を読む
 百年後の日本人に読ませたいと蘇峰が口述筆記で残した終戦後日記。解説の御厨貴はこの「終戦後日記」を昭和の戦争を考える上での「超怒級」の資料として評価した。
 昭和6年の満州事變から20年の終戦までを蘇峰は、一貫した流れとしてとらえた。
その上で昭和天皇の戦争指導者としての役割と能力については、烈しくきびしく批判している。
 自らを皇国史観の信奉者として自認しながらのこの言及は意外だった。
多くの日本兵士の戦死をもたらして敗戦を迎えたにもかかわらず、皺腹をかき切って責任をとっ将官は陸軍では阿南、海軍では大西中将ほか数えるほどの極く少数だったことに歯噛みし、叱咤している。
自裁すべきは東條、山下、寺内らと批判。
 玉音放送を聞き、一切の公職から自ら辞した蘇峰の日記はこうして昭和20年から1年有余の敗戦後の日本を舞台にしつつ、今次戦争はいかにして負けたのかという総括を刻んだ。
明治・大正・昭和の時代を蘇峰は肌で知っていた。
言論人でもあり歴史家でもあった蘇峰の「近世日本国民史」は再読に値する大著だったと思う。
この蘇峰の「日記」が初公開された意味は大きい。

解説の御厨は「四百頁を優に超える蘇峰の日記を一気に一晩で読み終えた」とした。バックグランドに精通しているのだろうが、 ホンマかいな、とも思った。
 私の場合、一気にというわけにはいかず、5日間、知らなかった事実のメモをとりながらも、どうにか読み終えた。
 一晩で一気に大著を読んで、あとがきを記す解説者・御厨の”速読読書力”に感服。


 20061030
晴れ。
”回廊”や縁側の塗料が剥げてきたので後日の作業のためにペンキ購入。
 あーちゃんを誘ってテニスのボレーなど反復練習し秋の体力作りの一助とした。
 午後からしばし昼寝。
 
20061031

農園四天王・清水さんの奥さんの作品がまた日展入選。
搬入して、たびたび入選することはたいへんなことと感心する。
ご 夫婦でその切符を持ってきてくれた。感謝。
我が家で月例囲碁会。
 近隣碁敵の佐藤、現役延長で働いているNの3人がメンバー。
 勝負の休憩合間に一献をかたむけるというのが集いの本来の趣向となっている。
その酒肴はジッタンが 作る。
 夜、定年を指呼の間にしているAさんと大宮で待ち合わせNと3人で飲む。
近況を交換。
Aさんの”卒業後”の希望はドイツ語をものにして、現在の居住地に走る路面電車を彼地に紹介するなど文化の交流を図り、当地と居住地を姉妹都市として握手させたいというもの。
たびたびオーストリア、ウイーンを訪れていて、今後、長期滞在も検討しているというAなら、その意、じゅうぶん天に通じるべしと酔うた後でも確信できた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿