光男とキミの結婚までを思い出として書いてあったキミの”事でん(自伝)”(キミ編1 で前述)に意が尽くされている部分があるので、それを紹介したい。(原文まま)
昭和3年11月3日に浅草区神吉町1丁目の光男家へ嫁ぐ。
キミは20歳で夫の光男は23歳である。
安達の伯母と、佐藤の伯母さんの仲人で2人は結ばれた。
当時、私は富士アイスクリーム会社に勤めていた。
私と妹のすず子2人は同じ店で働いていた。
なにも知らぬ人に急にひきあわさせれて、一度のお見合いで決められてしまった。
ただ、運命に決められてしまった結婚でもあった。
でも私は一生けんめいに光男なる人を観察した。
見合いの時は私の家であった。
光男の父、松次郎さんと仲人伯母たち、私の家族の妹すず子、らくが同席した。
妹たちは、自分のことではないから楽な心もちである。
ご馳走に寿司を出した。
大きな桶にいっぱいならんだ寿司は座敷のまんなかにあった。
光男は、父の松次郎さんは寿司が大嫌いであったので、はじのほうにいたのに前へ乗り出してきて、父の言い訳をしながら父の分まで食べたのであった。
ここでわたしの観察がはじまる。
私は思った。
ことを率直に出す男と思ったのである。
自分を飾らない人だとも。
この点は私の心にかなった人だと思った。
私は1年前にさる人から結婚を申し込まれていた。
その人は、おだやかな人柄で私にとってはもったいない人であった。1年くらい、その人は洋行していなかったが、帰ったら、縁があったらと思っていたが、やはり縁なくて失れんしてしまった。
それではやく結婚する心に成ったのである。
私の家は浄土真宗で母は同じ浄土真宗の人でなければ娘はやらぬと言って居り、其の点、伯母は光男家は同じ真宗の家だとのことで世話をしてくれました。
結婚したよく日のことであった。
夫は私に向かって自分の思っていることを話して聞かせる。
亡き母はセキズイカリエスという名のなん病で死んだのである。
母の病を神信心で直るとだれかにすすめられたので、一生けんめい寒参りして、ハダカで水ごりもし、寒中30日間、深川の明けん様へガンかけしたのであった。
光男4年生の時であった。
5年のときに本郷森川へ奉公に行きました。
母がくちやまかしく、4年生のこどもが朝の食事のしたくをして、そして学校へ行ったそうです。
学校はちこくしてしまい、先生は良いかたで、「来たか」と席へすすめてくださったそうです。
そしてよく年の春、母(ツル)の病いおもく、ついに亡くなったそうです。母の死を奉公先に知らせがくる。
桜の花が咲く頃にむかえがきたと話してくれました。
あんなに神信心して水ごりまでしたのに母は助からず、ついに亡くなってしまった。
と、私の嫁いだよく日に話をして、おれは神も仏も信じないのだと話してくれました。
私は、おどろきを感じました。
ひきょうだとも思いました。
一夜あける前に言ってくれればとも思ひました。
が、私がほしかったのだとあきらめました。
一度嫁げば私はキズものです。
元の身体にもどれないことに気づき、あきらめて光男家の人間に成りました。
■■ジッタン・メモ■■
母キミは平成10年9月17日に享年90歳でなくなった。
ノートに記した「事でん」(自伝)は平成2年の春に書かれている。
光男との結婚は昭和3年から昭和32年1月8日の光男52歳の永眠まで29年間続いた。
子どもは1女2男、夫婦仲はその子ども側から見ても、きわめて円満だったと思う。
キミは寡婦となって30年あとの自伝に結婚余話を記したわけで、先に旅立った光男はこのことを知って黄泉で苦笑して出迎えたかもしれない。
光男が亡くなる直前の昭和31年11月28日。
光男から娘順子への「葉書」に当時の生活を詠ったものが、今回偶然に発見されたので、紹介したい。
・真白なるエプロン壁にかけしまま二十日を経たり妻病みてより
・元気なる主婦群れ集ふ魚屋の店頭に立てり妻病みてあれば
・薄暗き厨に立ちて黙々と茶碗洗ひ居る子をいとほしむ
・水加減、火加減などを子等と共に語りあいたり厨に立ちて
・子等を前に晩酌を汲む今宵われ妻の平熱二日つヾきて
キミは当時風邪をこじらせ床についていた。
歌に詠まれている「子等」とはジッタンと兄である。
光男という人は、理髪業の傍ら、短歌も水彩画もよくする人だった。
短歌も朝日新聞の歌壇欄に 投稿し、そのほとんどが採用され、紙面を埋めていたと聞く。
昭和3年11月3日に浅草区神吉町1丁目の光男家へ嫁ぐ。
キミは20歳で夫の光男は23歳である。
安達の伯母と、佐藤の伯母さんの仲人で2人は結ばれた。
当時、私は富士アイスクリーム会社に勤めていた。
私と妹のすず子2人は同じ店で働いていた。
なにも知らぬ人に急にひきあわさせれて、一度のお見合いで決められてしまった。
ただ、運命に決められてしまった結婚でもあった。
でも私は一生けんめいに光男なる人を観察した。
見合いの時は私の家であった。
光男の父、松次郎さんと仲人伯母たち、私の家族の妹すず子、らくが同席した。
妹たちは、自分のことではないから楽な心もちである。
ご馳走に寿司を出した。
大きな桶にいっぱいならんだ寿司は座敷のまんなかにあった。
光男は、父の松次郎さんは寿司が大嫌いであったので、はじのほうにいたのに前へ乗り出してきて、父の言い訳をしながら父の分まで食べたのであった。
ここでわたしの観察がはじまる。
私は思った。
ことを率直に出す男と思ったのである。
自分を飾らない人だとも。
この点は私の心にかなった人だと思った。
私は1年前にさる人から結婚を申し込まれていた。
その人は、おだやかな人柄で私にとってはもったいない人であった。1年くらい、その人は洋行していなかったが、帰ったら、縁があったらと思っていたが、やはり縁なくて失れんしてしまった。
それではやく結婚する心に成ったのである。
私の家は浄土真宗で母は同じ浄土真宗の人でなければ娘はやらぬと言って居り、其の点、伯母は光男家は同じ真宗の家だとのことで世話をしてくれました。
結婚したよく日のことであった。
夫は私に向かって自分の思っていることを話して聞かせる。
亡き母はセキズイカリエスという名のなん病で死んだのである。
母の病を神信心で直るとだれかにすすめられたので、一生けんめい寒参りして、ハダカで水ごりもし、寒中30日間、深川の明けん様へガンかけしたのであった。
光男4年生の時であった。
5年のときに本郷森川へ奉公に行きました。
母がくちやまかしく、4年生のこどもが朝の食事のしたくをして、そして学校へ行ったそうです。
学校はちこくしてしまい、先生は良いかたで、「来たか」と席へすすめてくださったそうです。
そしてよく年の春、母(ツル)の病いおもく、ついに亡くなったそうです。母の死を奉公先に知らせがくる。
桜の花が咲く頃にむかえがきたと話してくれました。
あんなに神信心して水ごりまでしたのに母は助からず、ついに亡くなってしまった。
と、私の嫁いだよく日に話をして、おれは神も仏も信じないのだと話してくれました。
私は、おどろきを感じました。
ひきょうだとも思いました。
一夜あける前に言ってくれればとも思ひました。
が、私がほしかったのだとあきらめました。
一度嫁げば私はキズものです。
元の身体にもどれないことに気づき、あきらめて光男家の人間に成りました。
■■ジッタン・メモ■■
母キミは平成10年9月17日に享年90歳でなくなった。
ノートに記した「事でん」(自伝)は平成2年の春に書かれている。
光男との結婚は昭和3年から昭和32年1月8日の光男52歳の永眠まで29年間続いた。
子どもは1女2男、夫婦仲はその子ども側から見ても、きわめて円満だったと思う。
キミは寡婦となって30年あとの自伝に結婚余話を記したわけで、先に旅立った光男はこのことを知って黄泉で苦笑して出迎えたかもしれない。
光男が亡くなる直前の昭和31年11月28日。
光男から娘順子への「葉書」に当時の生活を詠ったものが、今回偶然に発見されたので、紹介したい。
・真白なるエプロン壁にかけしまま二十日を経たり妻病みてより
・元気なる主婦群れ集ふ魚屋の店頭に立てり妻病みてあれば
・薄暗き厨に立ちて黙々と茶碗洗ひ居る子をいとほしむ
・水加減、火加減などを子等と共に語りあいたり厨に立ちて
・子等を前に晩酌を汲む今宵われ妻の平熱二日つヾきて
キミは当時風邪をこじらせ床についていた。
歌に詠まれている「子等」とはジッタンと兄である。
光男という人は、理髪業の傍ら、短歌も水彩画もよくする人だった。
短歌も朝日新聞の歌壇欄に 投稿し、そのほとんどが採用され、紙面を埋めていたと聞く。
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