
自分が見ているものは
果たして他の人も同じように見ているのだろうか?
それは、意外と分からないものだ。
何を見、どのように感じ、どのように考えるのか
また、どのように実行するのか人それぞれだ。
この世に生まれ、生まれる環境や
育つ環境、そしてさまざまな経験。。。
ある部分は決まっていることかもしれないし
また、ある出来事は自分の人生にとっての
大きな機会や学びを得られるものとして
あるのかもしれない。
そして、それらを通してどう活かし、
どう気づくのか人それぞれであり
もしかしたら、それさえも決まっているのかもしれない。
気づき、活かし、変わる人もいれば
文句や泣き言、言い訳で
何もせず変わる気のない人もいる。
もしかしたら、それはそう生きる可能性が高く
この世に来ているのかもしれない。
機会はあるのだから、変わる可能性は持っているけれど
極めて気づく可能性は低いと言ったように。。。
身近であればあるほど
何故変わらないのか?
何故努力しないのか?
そんな風に感じるけれど
それはそれがその人なのだ。
成熟した魂を持った人もいれば
まだ幼い魂もあるように
最初から理解していることや
わかる、気づくと言った
物事のスタート地点が高い人もいれば
その逆と言った事もある。
よく感じることのひとつ。
スピリチュアル的な部分でも
人が「分かった」と言っても
それはどのくらいのところから、
今の「わかった」といことでも大きく違う。
ある人は、自分はまだ分からないと思っているけれど
その人は誰かの「わかった」が当たり前にあるのかもしれない。
初めからわかっていることが高い事もある。
この世の中は見方を少し変えると
とても不思議なものに映る。
わかっていること、見ている物事は
人によって違い、同じではないのだ。
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