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戊辰戦争、県北路を探る!

2008年05月29日 | Weblog
   移動研修会の第3弾、今日は隣地区史談会の移動研修会です。戊辰戦争の県北路をバス(市のバス)に乗って訪ねる学習会です。
   講師は隣の市の史談会の会長さんです。参加者は24名です。
  
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  素晴らしい講師の方でした。戊辰戦争の生きている字引のような方でした。現地の地理に精通し、生き生きした歴史を語ることのできる人でした。

  今回の研修の最終目的地はこちらでした。
          
          

  旧二ツ井町(現在の能代市)の「清徳寺」です。私はここで大変な勉強をしました。

  清徳寺は、山門脇にある案内板によると『秋田藩の家老梅津政景の開基による曹洞宗寺院。戊辰戦争に際し、二ツ井町は南部藩に攻め込まれ、迎え撃つ官軍との激戦地だった。「肥前八勇士の墓」がここに祀られている。東北巡行の際、明治天皇は同じ肥前(佐賀)出身で随行していた参議・大隈重信を代拝させた。』とあります。
  梅津政景は二ツ井町周辺を与えられ、開墾に力を入れた人物で岩関神社に祀られています。このお寺は、文政元年(1818)に建てられたもので、境内にある推定年齢500年の銀杏や欅と共に歴史を感じさせるお寺でした。

   私たちは、「肥前八勇士の墓」を参拝しに行ったのですが、肥前とは今の佐賀県です。何故東北の戊辰戦争に佐賀から兵士が参加していたのでしょうか。

  講師の方が準備して下さった資料や説明によると、佐賀からは600名の新政府軍の近代兵器を持った精鋭部隊が8月26日より秋田軍に参加(戦闘開始は8月10日)、それ以降は南部盛岡軍は敗退を始めることになります。終戦は9月20日でした。

  私は戊辰戦争は単に秋田軍(幕軍)と南部盛岡軍(官軍)が戦い、秋田軍が勝った戦いだったと思っていました。盛岡市の先人記念館で戊辰戦争の特別展を見学した時も南部盛岡軍(官軍)の中の3人の中心人物については詳細に分かったのですが、その時も秋田側のことについては何も分からなかったのです。

   一方だけ知って全てを知った積もりでいたことを厳しく諫められた感のする研修会でした。秋田県側に立って考えていた(調査研究していた)講師の考え方を知ることができとても良かったと思います。

   今後は両極の考えを忘れず考えて見るよう心します