T4作戦とは、第二次大戦中にナチスドイツで行われた、国益の足を引っ張る障害者を社会から排除するというスローガンの下、少なく見積もって20~40万人の障害者(ダウン症など知的障害者・精神障害者・身体障害者)が、ガス室で殺戮された事実である。
ナチスのポスター「この遺伝的欠陥を持つ人間の一生に6万ライヒマルクもかかる。それは他ならぬ君の金だ。考えろ」

https://ameblo.jp/manabist-column/entry-12185614065.html
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb700.html
https://mainichi.jp/articles/20170131/k00/00e/030/250000c
http://archive.fo/4sbXO
灰色のバスが、知的障害児童を施設から連れ出し、ハルトハイム城に向かった。
ガス室に連れ込まれる順番を待つ子供たち

一昨年、2月、津久井やまゆり園を襲って、一人で19名を殺害した、植松聖は、手紙や主張などで、「自分にナチスが降りてきた」と語り、日本において、自分が国益のためT4作戦を実行してみせたと考えていることが明らかになった。
https://matome.naver.jp/odai/2146958950639897101
麻生太郎は、以前から、「ナチスの手口を学べ」と講演会で公言し、ブルガリアでは、老人たちは国に負担をかけずに早く死ぬべきだと発言し、老人を敬愛する習慣のある現地の人々を驚愕させてみせた。
https://www.youtube.com/watch?v=vFN7eTucz-U
それでは、麻生太郎や植松聖、以前に、日本に、そうしたT4作戦の「国に負担をかける障害者や高齢者を抹殺する」という思想がなかったのか?
といえば、あった!
それが、昨年から激しく問題にされている、障害者に対する強制不妊手術問題である。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180928-00000047-asahi-soci
https://www.mag2.com/p/news/348601
https://mainichi.jp/articles/20180222/k00/00m/040/115000c
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4122/
これは、妊婦への強制堕胎も含んでいるので、まさにT4作戦と同じ「殺人行為」といってもよい。不妊手術の対象になったのは、分かっている限り、上のリンクにある通り9歳の少女に対して強制された。
この思想もまた、国家によって、「国に役立たない障害者を抹殺する」というT4作戦と本質的にまったく同じものである。
戦後民主主義が導入されててから行われた、この強制不妊手術の犠牲者は、少なくとも3000名以上であり、まさに「日本のT4作戦」というべきである。
戦後、この政策は「優生保護法」という法律によって行われたのだが、これを推進したのは、ゴリゴリの国家主義者ばかりでなく、むしろ、人権の重さを訴えたはずの左派系の、社会党議員なども含まれている。
戦争当時の、「日本一番」の競争主義が、どれほど人々を残酷に洗脳していたかを思い知らされるのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E4%BD%93%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%B3%95
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-78.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-331.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-317.html
戦後の優生保護法においては、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題を背景にし、革新系の女性議員にとっては、妊娠中絶の完全な合法化させるための手段である側面があった。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で当選した革新系の女性議員らは、第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シヅエといった革新系の政治家は母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。
彼女らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張していた。加藤などは外国の貧民街を見て帰国直後の1922年には社会運動に理解のあった夫と日本で産児調節運動を開始していた。石本静枝として産児制限運動を推進するなど母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が女性に必要だと訴えていた
(ウィキ引用)
しかし、優性保護=母体保護法を根拠として日本政府が行ったのは、望まぬ出産を強いられる妊婦の保護ではなく、日本政府の足を引っ張る障害者、非健全者を生まれる前から排除するための不妊手術の強要であった。
この発想の根底には、戦前の「天皇を頂点とする国家のために日本国民が存在する」という国体論の民衆への強要があり、それは、今でも形を変えて続いていて、そもそも天皇制や死刑制度は、まさに「日本国天皇と国民は一体の国体」という国家主義のために存在するのである。
日本国家などという、そもそも存在理由のない、空虚な妄想を、あたかも万古からの実体であるかのように国民を洗脳するために、天皇万世一系論や、国家に反逆した国民を殺戮するという死刑制度が強固に守られている現実に気づくべきである。
国家が必要なくなれば、天皇も死刑も必要ないのである。
「優性保護」=日本国の未来のために優秀な種だけ残して、障害者を抹殺するという思想は、まさしく、この国家主義の必然的延長であることを知らなければならない。
逆にいえば、天皇制や死刑制度ある限り、T4作戦は生き続けるのである。
私は、かつてタクシー運転手時代に、ダウン症の親子を施設に送る送迎を多くこなしたが、たくさんの障害家庭を見て、不幸な印象を持つような家庭がまったくないことに気づいた。
むしろ、みんな本当に幸福そうな家庭ばかりで、親も実に思慮深い、穏やかな人相であり、彼らが障害児童によって人生を困難にされているどころか、実際には、その逆で、障害者を育てることによって、人間として大きな幸福を得ているのだと感じたのである。
この世が、優性保護主義者の求める通り「優秀な人間」ばかりであったなら、社会は、どのようになったか、考えるべきである。
おそらく、何もかも、競争や優秀という観念に束縛されて、心の安まる暇のない、地獄のような自殺社会が生まれていたに違いない。
私が若いころ関わった「ヤマギシズム」の創始者である山岸巳代蔵もまた、優性保護思想の悪影響を受けていて、「優れた若者を育てる」という発想から自由ではなかった。
このことが、ヤマギシ社会の現在に暗い影を落としている。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html
人生には山あり谷あり、この地球の上には、まったく同じ平等な人間が住んでいるのであって、特別に優秀である必要もなければ、一番になる必要もない。
せいぜい許されるのは、「より良い」程度の価値観であろう。
もしも、絶対的な優劣を求めるなら、それはT4作戦に向かうしかなく、優性保護に向かうしかなく、障害者を殺戮し、少女たちを不妊化させるしかないのである。
問題は、「優秀でありたい」 優越感の座布団にくるまっていい気分でいたいというは発想なのである。
これが、どこから生まれるかといえば、幼い頃からの競争の強要であり、子供たちに優秀病のトラウマ=強烈なコンプレックスを植え付けた洗脳からなのだ。
子供たちには、人を蹴落として自分が一番になる発想ではなく、みんなで手を取り合い、認め合い、人間には誰でも、地位や蓄財とは無関係に、長所と短所を同量持っている事実を理解させることなのである。
ナチスのポスター「この遺伝的欠陥を持つ人間の一生に6万ライヒマルクもかかる。それは他ならぬ君の金だ。考えろ」

https://ameblo.jp/manabist-column/entry-12185614065.html
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb700.html
https://mainichi.jp/articles/20170131/k00/00e/030/250000c
http://archive.fo/4sbXO
灰色のバスが、知的障害児童を施設から連れ出し、ハルトハイム城に向かった。
ガス室に連れ込まれる順番を待つ子供たち

一昨年、2月、津久井やまゆり園を襲って、一人で19名を殺害した、植松聖は、手紙や主張などで、「自分にナチスが降りてきた」と語り、日本において、自分が国益のためT4作戦を実行してみせたと考えていることが明らかになった。
https://matome.naver.jp/odai/2146958950639897101
麻生太郎は、以前から、「ナチスの手口を学べ」と講演会で公言し、ブルガリアでは、老人たちは国に負担をかけずに早く死ぬべきだと発言し、老人を敬愛する習慣のある現地の人々を驚愕させてみせた。
https://www.youtube.com/watch?v=vFN7eTucz-U
それでは、麻生太郎や植松聖、以前に、日本に、そうしたT4作戦の「国に負担をかける障害者や高齢者を抹殺する」という思想がなかったのか?
といえば、あった!
それが、昨年から激しく問題にされている、障害者に対する強制不妊手術問題である。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180928-00000047-asahi-soci
https://www.mag2.com/p/news/348601
https://mainichi.jp/articles/20180222/k00/00m/040/115000c
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4122/
これは、妊婦への強制堕胎も含んでいるので、まさにT4作戦と同じ「殺人行為」といってもよい。不妊手術の対象になったのは、分かっている限り、上のリンクにある通り9歳の少女に対して強制された。
この思想もまた、国家によって、「国に役立たない障害者を抹殺する」というT4作戦と本質的にまったく同じものである。
戦後民主主義が導入されててから行われた、この強制不妊手術の犠牲者は、少なくとも3000名以上であり、まさに「日本のT4作戦」というべきである。
戦後、この政策は「優生保護法」という法律によって行われたのだが、これを推進したのは、ゴリゴリの国家主義者ばかりでなく、むしろ、人権の重さを訴えたはずの左派系の、社会党議員なども含まれている。
戦争当時の、「日本一番」の競争主義が、どれほど人々を残酷に洗脳していたかを思い知らされるのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E4%BD%93%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%B3%95
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-78.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-331.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-317.html
戦後の優生保護法においては、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題を背景にし、革新系の女性議員にとっては、妊娠中絶の完全な合法化させるための手段である側面があった。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で当選した革新系の女性議員らは、第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シヅエといった革新系の政治家は母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。
彼女らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張していた。加藤などは外国の貧民街を見て帰国直後の1922年には社会運動に理解のあった夫と日本で産児調節運動を開始していた。石本静枝として産児制限運動を推進するなど母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が女性に必要だと訴えていた
(ウィキ引用)
しかし、優性保護=母体保護法を根拠として日本政府が行ったのは、望まぬ出産を強いられる妊婦の保護ではなく、日本政府の足を引っ張る障害者、非健全者を生まれる前から排除するための不妊手術の強要であった。
この発想の根底には、戦前の「天皇を頂点とする国家のために日本国民が存在する」という国体論の民衆への強要があり、それは、今でも形を変えて続いていて、そもそも天皇制や死刑制度は、まさに「日本国天皇と国民は一体の国体」という国家主義のために存在するのである。
日本国家などという、そもそも存在理由のない、空虚な妄想を、あたかも万古からの実体であるかのように国民を洗脳するために、天皇万世一系論や、国家に反逆した国民を殺戮するという死刑制度が強固に守られている現実に気づくべきである。
国家が必要なくなれば、天皇も死刑も必要ないのである。
「優性保護」=日本国の未来のために優秀な種だけ残して、障害者を抹殺するという思想は、まさしく、この国家主義の必然的延長であることを知らなければならない。
逆にいえば、天皇制や死刑制度ある限り、T4作戦は生き続けるのである。
私は、かつてタクシー運転手時代に、ダウン症の親子を施設に送る送迎を多くこなしたが、たくさんの障害家庭を見て、不幸な印象を持つような家庭がまったくないことに気づいた。
むしろ、みんな本当に幸福そうな家庭ばかりで、親も実に思慮深い、穏やかな人相であり、彼らが障害児童によって人生を困難にされているどころか、実際には、その逆で、障害者を育てることによって、人間として大きな幸福を得ているのだと感じたのである。
この世が、優性保護主義者の求める通り「優秀な人間」ばかりであったなら、社会は、どのようになったか、考えるべきである。
おそらく、何もかも、競争や優秀という観念に束縛されて、心の安まる暇のない、地獄のような自殺社会が生まれていたに違いない。
私が若いころ関わった「ヤマギシズム」の創始者である山岸巳代蔵もまた、優性保護思想の悪影響を受けていて、「優れた若者を育てる」という発想から自由ではなかった。
このことが、ヤマギシ社会の現在に暗い影を落としている。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html
人生には山あり谷あり、この地球の上には、まったく同じ平等な人間が住んでいるのであって、特別に優秀である必要もなければ、一番になる必要もない。
せいぜい許されるのは、「より良い」程度の価値観であろう。
もしも、絶対的な優劣を求めるなら、それはT4作戦に向かうしかなく、優性保護に向かうしかなく、障害者を殺戮し、少女たちを不妊化させるしかないのである。
問題は、「優秀でありたい」 優越感の座布団にくるまっていい気分でいたいというは発想なのである。
これが、どこから生まれるかといえば、幼い頃からの競争の強要であり、子供たちに優秀病のトラウマ=強烈なコンプレックスを植え付けた洗脳からなのだ。
子供たちには、人を蹴落として自分が一番になる発想ではなく、みんなで手を取り合い、認め合い、人間には誰でも、地位や蓄財とは無関係に、長所と短所を同量持っている事実を理解させることなのである。