大相撲、横綱全滅、稀勢の里悲惨、なんでこうなる?
肉体を破壊されたのは、全員、優勝報償で福島米1トンを授与された力士ばかり。
いったい、なぜ、食事が原因だという言葉が出てこないの?
なぜ、放射能が危ないと言わないの?
御嶽海よ、お願いだから優勝報償米だけは絶対に食わないで、全部、自民党や維新、公明党の原発支持者に食わせてやってくれ!
くれぐれも木曽の米屋には回すなよ、私も買うのだから。
****************************
私が、繰り返し旧約聖書を糾弾している理由は、旧約聖書が死刑制度を人々に強要しているからである。
全世界の半数の人々が、生まれながらに旧約信仰を強要され、「神との契約」として旧約聖書を絶対視していて、レビ記に書かれた死刑を神からの命令と捉えて、大切な温かい人間性を崩壊させているのだ。
これが悪魔との契約でなくて何だ!
プロテスタント・キリスト教徒の大半も、旧約レビ記をタテに死刑制度を容認肯定し、その延長に、例えば、米国最大のキリスト教宗派、福音派は、ベトナム戦争における空爆を支持し、たくさんの無辜のベトナム人を殺戮し、あまつさえ核攻撃さえ容認しているのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
旧約の原点であるはずのモーゼの十戒に「人を殺してはならない」(出エジプト記20章の第六)と書かれているにもかかわらず、処刑による人殺しを認めるのは、人類史上、最大最悪の自己撞着=矛盾である。
しかし、多くの自称クリスチャンが、陳腐極まりない屁理屈を並べて、「十戒6番の殺すなという戒律と、レビ記の処刑命令は矛盾しない」と、驚愕するような下劣な屁理屈、論理性皆無の勝手な決めつけを平然と教えているのが、実に空恐ろしくもあり、この連中の知能の恐るべき低さと、人間性の愚劣さを社会に大きく示すものになっている。
こんな屁糞、インチキ、デマは、キリスト教ではない! こんなクズどもに欺されてはいけない!
https://www.youtube.com/watch?v=WvH7al1IcV4
言っておくが、新約聖書のイエスの言葉のなかに、旧約聖書における処刑命令を容認した記述などどこにもない。
上の動画で知ったかぶりで聖書を解釈してる糞牧師も、たぶん本当に自分の意思で、まともに聖書を読んだこともないのだろう。
キリスト教徒を口にしているが、人殺しが趣味のような十字軍や、北爆で無数のベトナム人を殺戮した福音派のように、与えられた知識を自分で咀嚼もせず、批判もせず、無条件に受け入れて他人に吹聴しまくっているタダのアホにすぎない。
おまえらは十戒の破戒者だ!
要するに、こいつら(死刑制度賛成牧師)は、キリスト教の歴史的な権威を振りかざして、信者を脅し、偉そうにすることで自己満足してるだけのクズである。
キリスト教の本当の中身など、何一つ理解していないのだ!
これは、ドイツ・ランベルティ教会の戸口の上に掲げられた「死の鉄籠」であるが、つい数十年前まで、この中に白骨化した死体が入っていた。
教会に対する反対勢力が、生きたまま餓死させられ、あるいは処刑後、数百年も見せしめのため、死体が吊されていたのだ。

ドイツで死刑廃止になったのは、まだ1987年のことで、それまでは、ドイツ中の教会に、こうした残酷な見せしめ死体が吊り下げられていた。
これが「キリスト者」=キリスト教権威主義者たちの正体である。
先の、死刑制度推進牧師の動画もそうだが、この連中は、殺人が大好きなのである。
人殺しこそキリスト教の神髄であると思い込んでいるのではないか?
だが、ホンモノのイエスキリストは、このように殺人を楽しめなどと、ただの一度も言っていないのである。
すべて、キリストの言説を勝手にねじ曲げ、権威化することで利権を得ている連中がやっていることである。
なんで、ここまで書くのかといえば、これまでの旧約についての私の記述について、実にむかつく偉そうなコメント書いてくる阿呆がいるので、思い上がってる自称キリスト教とを一発ぶん殴ってやりたかったからだ。
イエスは、パリサイ人の市場に出かけて、めちゃめちゃなぶっ壊しをしてるから、この程度なら許されるだろう。
私はクリスチャンだった祖母に連れられて、子供の頃、毎週のように教会に連れられ、牧師の説教を聞いていたが、本当の目的は、キリストの血と称するブドウジュースと、肉と称するクッキーを食べたいだけのことだった。
実は、クリスチャンでもなんでもないが、イエスとゴータマの本当の言葉に矛盾を感じたことは一度もない。
明治生まれで、大正時代には、すでに敬虔なクリスチャンだった祖母だが、1968年、勤め先のバス観光で、乗っていたバスが流され100名以上が死ぬ大惨事となった。奇しくも、自分の生まれ育った白川町で起きた大事故だが、祖母は、凄まじい豪雨をものともせず、土砂崩れで動けないことを報告に他のバスに走ったが、戻ろうとしたとき、自分の乗っていたバスが、飛騨川に流されてゆくのを見せられた。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1654700.html
助かったのは、祖母を含めて五名だけだった。
これもイエス様のお導きなのかい? イエスは、信仰者しか助けないのかな?
たくさんの死と向き合ってきたはずの祖母でさえ、死刑制度の本当の意味を理解できなかった理由は、旧約聖書の刷り込みだろうと私は思った。
実は、祖母も死刑賛成派だったのだ。祖母の所属した教会(守山区大森にあったが、今はない)が福音派だったからだ、たぶん。
私が死刑廃止運動を始めたのは20歳代だが、クリスチャンなら、当然、死刑廃止だと勘違いしていた私がアホだった。
祖母は、私の運動に興味を示さなかった。
私は、たった一人で、死刑反対のビラを作り、何万枚も戸別配布したが、理解されることは、ほとんどなかった。
たった一人の孤独な戦いを、還暦を超えた今でも続けている。そうして、「本当の敵は、旧約にあり」と気づいたというわけだ。
日本のような豊かな社会では、過ちを犯した人間を、必要なだけ獄中に閉じ込めておける力があるのだから、無理矢理殺す必要など、どこにもない。
もし、死刑に理由があるとすれば、それは権力者が、人々を「従わなければ殺す!」と恫喝する意味だけである。
この種の思想は、日本の場合、儒教(朱子学)から来ているのだが、その儒教もまた、実は旧約聖書の影響を受けている。
実は、これは国家という、人間を離れて人間を統括する組織の話であって、個人的レベルで考えれば話は別だ。
人は「感情」で動いてる。感情ばかりで動いてると、世の中がケンカだらけになって、うまく社会が動かないから、感情の上に「理性」という価値観を置いて、感情主義のケンカ社会をコントロールしようというわけだ。
ところが、死刑制度は、その低劣な感情の上に乗って、死刑になるという恐怖で、民衆を統治してきたわけで、この精神は、旧約聖書と同じである。
身内を殺された激しい憤り、憎悪を、そのまま死刑制度に結びつけて、「従わなければ殺す」という理屈を正当化してるだけのことだ。
死刑制度が必要だと、私のところに、たくさんの愚かなコメントが寄せられるが、共通点は、人間性の恐ろしいほどの低俗、下劣さで、感情ばかりで、どこにも理性が存在しないことである。
「自分の利権を侵す者」は皆殺しにしてやるという、憎悪しか伝わらず、その矛先は、死刑制度に反対する私に向けられるのである。
理性がないから、「なぜ死刑制度を続ける必要があるのか?」について、「悪人は殺すしかない」という知的劣化の極致のような回答しかできない。
子供たちの明るい未来にとって、死刑制度が有益なのが有害なのか? という問いかけを、生涯ただの一度も考えたことがないのだ。
もう少し掘り下げた哲学的観点からいうと、ユングの明らかにした「集合無意識」は、一定のアイデンティティを共有する人間集団の意識は共有されていて、他人の喜びや、他人の苦しみが、共有された集合無意識のなかに存在し、誰かが死刑になって、地獄のような苦痛を感じていると、同じように、それを共有する人が存在するということがあって、「人は決して一人だけで生きているわけではない」 たくさんの人と、意識を共有し、無意識に連帯し、運命をも共有するという問題がある。
例えば、アメリカで、絶え間なく起きている無差別殺人だが、これは、中東で連日連夜起きている自爆テロ犯の意識が、死後にアメリカに向かい、同じ波動を共有する人物に憑依して事件を起こすことがある。
また、宅間守のように子供たちを8名殺して、死刑になったのはいいが、そのままの病的状態で、死後、他人に憑依し、同じような事件を繰り返す。
中国で、8名の子供を殺した宅間事件そっくりの事件が、少なくとも五回くらい起きているのは、このことであろう。
したがって、死後の世界と、集合無意識の存在から、死刑制度は、完全に無意味で百害あって一利もない代物なのである。
宅間のような人物は、絶対に殺してはならなかった。死ぬまで閉じ込めて自分と向き合わさせることだけが唯一の正しい解決策だったのである。
キリスト教徒(多くは福音派)が死刑制度を肯定するとき、この霊的存在であることと、集合無意識の共有問題について、何らかの知識を持っている人物は、ほぼ皆無といえるだろう。
その人間性は、徹底した報復主義であり、寛容性のない、人間としての付き合いも不愉快な人物ばかりであろう。
さて、今日は、暑すぎて脳味噌が回らないので、いずれ、死刑制度の本質については、繰り返し書くつもりだ。
肉体を破壊されたのは、全員、優勝報償で福島米1トンを授与された力士ばかり。
いったい、なぜ、食事が原因だという言葉が出てこないの?
なぜ、放射能が危ないと言わないの?
御嶽海よ、お願いだから優勝報償米だけは絶対に食わないで、全部、自民党や維新、公明党の原発支持者に食わせてやってくれ!
くれぐれも木曽の米屋には回すなよ、私も買うのだから。
****************************
私が、繰り返し旧約聖書を糾弾している理由は、旧約聖書が死刑制度を人々に強要しているからである。
全世界の半数の人々が、生まれながらに旧約信仰を強要され、「神との契約」として旧約聖書を絶対視していて、レビ記に書かれた死刑を神からの命令と捉えて、大切な温かい人間性を崩壊させているのだ。
これが悪魔との契約でなくて何だ!
プロテスタント・キリスト教徒の大半も、旧約レビ記をタテに死刑制度を容認肯定し、その延長に、例えば、米国最大のキリスト教宗派、福音派は、ベトナム戦争における空爆を支持し、たくさんの無辜のベトナム人を殺戮し、あまつさえ核攻撃さえ容認しているのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
旧約の原点であるはずのモーゼの十戒に「人を殺してはならない」(出エジプト記20章の第六)と書かれているにもかかわらず、処刑による人殺しを認めるのは、人類史上、最大最悪の自己撞着=矛盾である。
しかし、多くの自称クリスチャンが、陳腐極まりない屁理屈を並べて、「十戒6番の殺すなという戒律と、レビ記の処刑命令は矛盾しない」と、驚愕するような下劣な屁理屈、論理性皆無の勝手な決めつけを平然と教えているのが、実に空恐ろしくもあり、この連中の知能の恐るべき低さと、人間性の愚劣さを社会に大きく示すものになっている。
こんな屁糞、インチキ、デマは、キリスト教ではない! こんなクズどもに欺されてはいけない!
https://www.youtube.com/watch?v=WvH7al1IcV4
言っておくが、新約聖書のイエスの言葉のなかに、旧約聖書における処刑命令を容認した記述などどこにもない。
上の動画で知ったかぶりで聖書を解釈してる糞牧師も、たぶん本当に自分の意思で、まともに聖書を読んだこともないのだろう。
キリスト教徒を口にしているが、人殺しが趣味のような十字軍や、北爆で無数のベトナム人を殺戮した福音派のように、与えられた知識を自分で咀嚼もせず、批判もせず、無条件に受け入れて他人に吹聴しまくっているタダのアホにすぎない。
おまえらは十戒の破戒者だ!
要するに、こいつら(死刑制度賛成牧師)は、キリスト教の歴史的な権威を振りかざして、信者を脅し、偉そうにすることで自己満足してるだけのクズである。
キリスト教の本当の中身など、何一つ理解していないのだ!
これは、ドイツ・ランベルティ教会の戸口の上に掲げられた「死の鉄籠」であるが、つい数十年前まで、この中に白骨化した死体が入っていた。
教会に対する反対勢力が、生きたまま餓死させられ、あるいは処刑後、数百年も見せしめのため、死体が吊されていたのだ。

ドイツで死刑廃止になったのは、まだ1987年のことで、それまでは、ドイツ中の教会に、こうした残酷な見せしめ死体が吊り下げられていた。
これが「キリスト者」=キリスト教権威主義者たちの正体である。
先の、死刑制度推進牧師の動画もそうだが、この連中は、殺人が大好きなのである。
人殺しこそキリスト教の神髄であると思い込んでいるのではないか?
だが、ホンモノのイエスキリストは、このように殺人を楽しめなどと、ただの一度も言っていないのである。
すべて、キリストの言説を勝手にねじ曲げ、権威化することで利権を得ている連中がやっていることである。
なんで、ここまで書くのかといえば、これまでの旧約についての私の記述について、実にむかつく偉そうなコメント書いてくる阿呆がいるので、思い上がってる自称キリスト教とを一発ぶん殴ってやりたかったからだ。
イエスは、パリサイ人の市場に出かけて、めちゃめちゃなぶっ壊しをしてるから、この程度なら許されるだろう。
私はクリスチャンだった祖母に連れられて、子供の頃、毎週のように教会に連れられ、牧師の説教を聞いていたが、本当の目的は、キリストの血と称するブドウジュースと、肉と称するクッキーを食べたいだけのことだった。
実は、クリスチャンでもなんでもないが、イエスとゴータマの本当の言葉に矛盾を感じたことは一度もない。
明治生まれで、大正時代には、すでに敬虔なクリスチャンだった祖母だが、1968年、勤め先のバス観光で、乗っていたバスが流され100名以上が死ぬ大惨事となった。奇しくも、自分の生まれ育った白川町で起きた大事故だが、祖母は、凄まじい豪雨をものともせず、土砂崩れで動けないことを報告に他のバスに走ったが、戻ろうとしたとき、自分の乗っていたバスが、飛騨川に流されてゆくのを見せられた。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1654700.html
助かったのは、祖母を含めて五名だけだった。
これもイエス様のお導きなのかい? イエスは、信仰者しか助けないのかな?
たくさんの死と向き合ってきたはずの祖母でさえ、死刑制度の本当の意味を理解できなかった理由は、旧約聖書の刷り込みだろうと私は思った。
実は、祖母も死刑賛成派だったのだ。祖母の所属した教会(守山区大森にあったが、今はない)が福音派だったからだ、たぶん。
私が死刑廃止運動を始めたのは20歳代だが、クリスチャンなら、当然、死刑廃止だと勘違いしていた私がアホだった。
祖母は、私の運動に興味を示さなかった。
私は、たった一人で、死刑反対のビラを作り、何万枚も戸別配布したが、理解されることは、ほとんどなかった。
たった一人の孤独な戦いを、還暦を超えた今でも続けている。そうして、「本当の敵は、旧約にあり」と気づいたというわけだ。
日本のような豊かな社会では、過ちを犯した人間を、必要なだけ獄中に閉じ込めておける力があるのだから、無理矢理殺す必要など、どこにもない。
もし、死刑に理由があるとすれば、それは権力者が、人々を「従わなければ殺す!」と恫喝する意味だけである。
この種の思想は、日本の場合、儒教(朱子学)から来ているのだが、その儒教もまた、実は旧約聖書の影響を受けている。
実は、これは国家という、人間を離れて人間を統括する組織の話であって、個人的レベルで考えれば話は別だ。
人は「感情」で動いてる。感情ばかりで動いてると、世の中がケンカだらけになって、うまく社会が動かないから、感情の上に「理性」という価値観を置いて、感情主義のケンカ社会をコントロールしようというわけだ。
ところが、死刑制度は、その低劣な感情の上に乗って、死刑になるという恐怖で、民衆を統治してきたわけで、この精神は、旧約聖書と同じである。
身内を殺された激しい憤り、憎悪を、そのまま死刑制度に結びつけて、「従わなければ殺す」という理屈を正当化してるだけのことだ。
死刑制度が必要だと、私のところに、たくさんの愚かなコメントが寄せられるが、共通点は、人間性の恐ろしいほどの低俗、下劣さで、感情ばかりで、どこにも理性が存在しないことである。
「自分の利権を侵す者」は皆殺しにしてやるという、憎悪しか伝わらず、その矛先は、死刑制度に反対する私に向けられるのである。
理性がないから、「なぜ死刑制度を続ける必要があるのか?」について、「悪人は殺すしかない」という知的劣化の極致のような回答しかできない。
子供たちの明るい未来にとって、死刑制度が有益なのが有害なのか? という問いかけを、生涯ただの一度も考えたことがないのだ。
もう少し掘り下げた哲学的観点からいうと、ユングの明らかにした「集合無意識」は、一定のアイデンティティを共有する人間集団の意識は共有されていて、他人の喜びや、他人の苦しみが、共有された集合無意識のなかに存在し、誰かが死刑になって、地獄のような苦痛を感じていると、同じように、それを共有する人が存在するということがあって、「人は決して一人だけで生きているわけではない」 たくさんの人と、意識を共有し、無意識に連帯し、運命をも共有するという問題がある。
例えば、アメリカで、絶え間なく起きている無差別殺人だが、これは、中東で連日連夜起きている自爆テロ犯の意識が、死後にアメリカに向かい、同じ波動を共有する人物に憑依して事件を起こすことがある。
また、宅間守のように子供たちを8名殺して、死刑になったのはいいが、そのままの病的状態で、死後、他人に憑依し、同じような事件を繰り返す。
中国で、8名の子供を殺した宅間事件そっくりの事件が、少なくとも五回くらい起きているのは、このことであろう。
したがって、死後の世界と、集合無意識の存在から、死刑制度は、完全に無意味で百害あって一利もない代物なのである。
宅間のような人物は、絶対に殺してはならなかった。死ぬまで閉じ込めて自分と向き合わさせることだけが唯一の正しい解決策だったのである。
キリスト教徒(多くは福音派)が死刑制度を肯定するとき、この霊的存在であることと、集合無意識の共有問題について、何らかの知識を持っている人物は、ほぼ皆無といえるだろう。
その人間性は、徹底した報復主義であり、寛容性のない、人間としての付き合いも不愉快な人物ばかりであろう。
さて、今日は、暑すぎて脳味噌が回らないので、いずれ、死刑制度の本質については、繰り返し書くつもりだ。