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旧約聖書は処刑律法

2018年07月14日 | 未分類
 旧約聖書がルシファー(サタン)との契約だといわれるのは、旧約聖書全体が、死刑による恐怖支配を明確に指示しているからである。

 「アブラハムの宗教」と呼ばれている、全世界で旧約聖書(ユダヤ教では単に聖書)を信奉する人々は、どれほどいるかというと、キリスト教とイスラム教を中核に約34億人といわれ、全地球人口の半分である。



 ユダヤ教に限れば、イスラエルのみが国教として定め、宗派人口は1500万人にすぎないが、その社会的影響力の大きさは比類なく、一説では、世界の資産の9割以上を彼らが所有しているともいわれる。



 レビ記は、旧約聖書トーラー五書(モーゼ五書)の一つであり、いわば旧約聖書の骨幹をなす核心部分で、ユダヤ教徒は、11歳までに、これを暗記し、13歳でラビや親族の前で五書全編を暗唱してみせ、はじめてユダヤ教徒として一人前と認められる元服式のような儀式を行う。



 つまり、旧約聖書トーラー五書は、ユダヤ教徒にとって幼い内から完全に意識・無意識にすり込まれた人生の最高教書である。

 それゆえ、ここに書かれている論理を、ユダヤ教徒は、善悪是非の判断以前の絶対的な観念としてすり込まれて成人するため、これを人智を超えた「神の言葉」として受け取り、内容に忠実に生きることこそ人生の使命であると確信している者が大部分である。



 ここで、旧約聖書の核心的思想といえる「恐怖支配」について、どのように定めているか見ておこう。



http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-153.html



  レビ記 / 24章 16節

主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。



レビ記 / 24章 17節

人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。



レビ記 / 24章 21節

家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。

レビ記20章から



自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。



自分の父母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。父母を呪うことは死罪に当たる。



人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。

父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。



嫁と寝る者は両者共に必ず死刑に処せられる。この秩序を乱す行為は死罪に当たる。



女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。



動物と交わった男は必ず死刑に処せられる。その動物も殺さねばならない。



男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。

 

 ヨシュア記7章25節



(アカル)」(25節)という判決を下し、「全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺し」



 ダニエル書6章



6:24 王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕えられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった



 エゼキエル書23章47節



 正しい人々は淫婦のさばきと、血を流した女のさばきとをもって、彼らをさばく。それは彼らが淫婦であって、その手に血があるからである」。

46 主なる神はこう言われる、「わたしは軍隊を彼らに向かって攻め上らせ、彼らを恐れと略奪とに渡す。

47 軍隊は彼らを石で打ち、つるぎで切り、そのむすこ娘たちを殺し、火でその家を焼く。

48 こうしてわたしはこの地に淫乱を絶やす



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 こうしてみれば、旧約聖書というのは「殺人教書」といってもいいほど、人々に死刑を勧めている。

 これを全世界34億人の人々が信仰し、わけてもユダヤ教徒は、幼い内からの暗誦を通じて心にプログラムのようにすり込まれているのだ。



 処刑というのは、あたかも神の絶対的な教えのように思い込まされてしまった人々が、数十億人もいるという現実、これが少なくとも3500年以上もの歴史を持っているということ。

 このことが、実は人類の死刑制度に対し、決定的な影響を与え続けてきたことを知るべきである。



 ところで「アブラハムの宗教」34億人が旧約聖書を聖典としているとしたが、本当は、はるかに凄まじい。

 実は、儒教も神道も、また旧約聖書の影響が明らかなのだ。

 仏教やヒンズー教については定かでないが、儒教が成立した2500年前の中国中原地方にあっては、中東との交易ルート(シルクロード)が確立されていて、今では想像もできないほどの文化的人的交流があって、旧約聖書が流入していたのは確実であって、儒教における権力主義的な要素は、旧約から流用されたと私は考えている。



 神道にあっても、日本に持ち込んだのは秦氏(弓月氏)であると考えられ、おそらく中央アジア経由でネストリウス派(景教)の持ち込んだ思想と思われるが、これも実は新約ではなく旧約が大半であった。



 先にも書いたが、人類は、「対象を見て、より合理的な問題解決を行う」習性があるかというと、実は違う。まずは幼い内から心にすり込まれた規範を前提に思考するのであり、人類の大半が、旧約聖書の論理を心に刷り込まれて育ったという現実を知る必要がある。



 そうなると、死刑の論理というものがあるとすれば、その論理的合理性の如何ではなく、「神の教え」に合致しているかどうかを問題にするのであり、旧約聖書が死刑制度を指示しているのだから、忠実に倣うという発想は自然なものである。



 そこで登場したのが、イエスキリストであった。



 ヨハネ福音書 8章7節



 当時イエスの事を良く思っていなかったパリサイ人と律法学者は、姦淫の罪を犯した女を連れて来てこう言った。

「モーセの律法によると、この女は石打ちに処する様に命じられていますが、貴方ならどうしますか。」

パリサイ人達はイエスを試し、その上げ足を取りたかったのである。

しかしイエスは彼らの心の内を知っており、



「あなた方のうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい」



と言った。それを聞いたパリサイ人達は、年長者から一人、また一人とその場を離れていった。

そしてイエスは連れて来られた女に、

「婦人よ、あの人達(パリサイ人達)は今何処に居ますか。貴方を罪に定める者は無かったのですか」

と尋ねた。すると女は、「誰もいません。」と答えた。

それを聞いたイエスは、



「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

と、彼女の罪を許したのだった



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 この項目こそ、私は旧約聖書と新約聖書を決定的に隔てるものであり、ここに述べられた「罪なき者は石撃て」こそ、キリストがこの世界に登場してきた決定的な理由であると考えている。



 とても簡単なことだ。

 「罪を犯した人を殺すというなら、アンタ自身に罪はないのかね?」



 とキリストは問うて、自分の罪を振り返った人々は、他人の罪を制裁処罰することをやめて、すごすごと逃げていった。



 という小さな逸話であるが、こんな論理を掲げた人は、キリスト以前になかった。

 なぜなら、聖書に「殺せ」と書いてあるのだから、神の言葉を実行するだけだったのだから。

 そこで、神の言葉に逆らったキリストは十字架に貼り付けられてユダヤ人の律法派(パリサイ人)たちに殺されてしまったわけだ。



 聖書に書いてある通り、一言一句も違えずに聖書を忠実に守って生きよと、ユダヤ人たちに強要したグループを「律法主義者」=パリサイ人と呼んで、キリストの一生は、パリサイ人との戦いの連続であった。



 実は、パリサイ人は、今でもユダヤ教徒の主流派である。

 後に、フランキスト派とも呼ばれ、シオニズムもロスチャイルドも、すべて、このグループから派生している。



 共通項を考えれば、キリスト教とイスラム教の原理主義者、イスラム国、アルカイダ、ボコハラムなどのテロリストもまた、原理、律法主義グループであるといえよう。

 いわゆるフリーメーソンやイルミナティもまた、パリサイ人の末裔であるといえよう。



 今のイスラエル人の大半が、実はイエスキリストを嫌う「反キリスト」に所属している。最大の理由は、ユダヤ人を歴史的に迫害したボグロムというユダヤ人殺戮運動を行った主体がキリスト教徒ということで、歴史的な怨念が関係しているともいわれる。



 しかし、キリスト教徒がユダヤ人に対しボグロムを仕掛けるようになった理由も、ユダヤ教徒のなかにキリスト教徒の子たちを殺戮する儀式が行われていたからだともいわれる。



 また、カトリックは、本来キリスト教のはずだが、なぜか司祭の8割がユダヤ人であるという。なんでキリストを大嫌いで、旧約トーラーを暗誦させられてきたユダヤ人が、カトリックの司祭になるのか?



 そして、カトリック教会には、恐ろしい痕跡が発見されている。



 https://www.cnn.co.jp/world/35048985.html



 http://s.webry.info/sp/mizu888.at.webry.info/201406/article_36.html



 http://biz-journal.jp/2017/07/post_19970.html



https://www.asahi.com/articles/ASKDH4W7CKDHUHBI025.html



 これらは、中世以来、伝えられてきたユダヤ人がキリスト教徒の子供を殺戮する陰謀を行っているとの証拠になる可能性があって、加害者側に強大な権力と資産があるため、隠蔽が続いているが、本気で事実関係が暴露されたなら、もうカトリックの存在理由は失われ、カトリックとは、反キリストの陰謀教団であるとの巷説も真実味を帯びてくる。



 カトリックが行った、数千万人のイスラム教徒を大虐殺した十字軍や、カルビン・ルターの反乱なども、こうした視点で見直せば、なんとなく理解できる。

 また、メイフラワー号で有名な、欧州から新大陸への移民も、プロテスタント・ピューリタンのはずが、本当は、ボグロムを恐れてキリスト教徒の仮面を被ったユダヤ人たちだったとの暴露もある。



 死刑制度によって国家権力が民衆を恐怖支配するシステムを容認、あるいは指示してきた旧約聖書に対し、「そりゃ違うんじゃないか?」と意義を唱えて登場してきたのがイエスキリストだが、そんな論理を、自分たちの律法支配を崩壊させるものとして嫌悪し、キリストまで殺害してしまったパリサイ人たち。



 彼らの先祖、アブラハムとモーゼが契約した神というのは、キリストの神ではなく、ルシファー(サタン)であり、悪魔だったのである。

 そこで、新しい契約を勧めたのが新約聖書である。(新約とは新しい翻訳ではなく、新しい契約のことである)



 そうして、キリストの提示した論理、「偉そうに罪人を殺せっていうアンタだって罪人じゃん!」という指摘を深く考え、人間を処刑の恐怖で支配するのではなく、愛の力で人生を変えてゆこうというのが新約聖書の論理であり、その延長に、やっと欧州全域での死刑制度廃止が実現している。



 残された先進国で、死刑制度を維持しているのは、日本だけであり、アメリカでも20州が廃止している。

 もう、世界では、処刑の恐怖で人々を支配する国家主義は、本当に恥ずかしい、遅れたことなのだ。本当に恥ずかしい国、日本である。



 私は、別に新約聖書を信仰せよと書いているわけではない。

 人を処刑の恐怖で支配しようとする発想が、どれほど卑劣で愚かなことかを明らかにし、人の間違いを制裁処罰するのではなく、教育し、更正させることで、処罰では何一つ得られない心の成果を、愛と更正によって、誤りを百倍の結実に変えてゆこうと書いているのである。



 インド人はアングリマーラを殺さなかった。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-392.html



 殺されたオウムの幹部たちだって、アングリマーラの一人だった。更正すれば失敗の百倍千倍の価値を生み出したであろうに、殺してしまえば、何もかも終わりでではないか?

 憎悪で世界を変えられるか?