「いつ死んでもいい」と思えるような生き方が最高の生き方なんじゃないかなあ、なんて思う今日この頃。
熟した実が今にも木から落ちそうになっているというイメージ。
こう言えば分かってもらえそうな気がする。
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自分を最近発見したな
ぼくも病気になる前は、一日が終わるときに、「今日はこれで死んでも悔いはないと言い切れるだろうか」と、毎日振り返っていました。
そのころは、死ぬのは怖くありませんでした。というのも、最善の生き方をしていると確信していたからです。そうした確信なしに日々を過ごしていると、やはり死ぬのが怖くなるんでしょう。
ここでいう「最善の生き方」とは、後悔のない生き方ですし、それは自分自身と一致している感覚、自分の心の深いところにあるもの、つまり無意識と自分の行動、生活が一致していると確信している生き方です。「これが自分だ」となんの留保もなく確言できる状態です。西田幾多郎の『善の研究』に書いてあることも、結局は、この「最善の生き方」にかかわることだと思います。
西田は、「人は誰でも一あって二なき特色を持っているのである。この個人性を発揮することが、端的に善である」というようなことを言っていますが、これは善であるとともに、自分自身にとって最も幸せな生き方であり、自分とかかわる人たちにとっても、最も好ましいものと言えるでしょう。死にながらにして生きるというのは、鈴木大拙の思想の根本的なテーマの一つでもあると思います。
「大死一番乾坤新なり」という言葉もありますし、「初音の心地」という言葉もあります。初音の心地というのは、どんな体験も、初めてのことのように感じるということです。木村敏にも「イントラ・フェストゥム」という術語がありますが、これも死にながらにして生きることと深い関係があると思います。生と死という二項対立の存在しない境涯があると思います。そこには生もなく、死もない。同時に、生に満ちていて、同時に死に満ちている。
もちろん、現在のぼくはこうした境涯からは遠く隔たったところにあります。自分自身と一致して生きるということは、自分自身にとっても最善であると思いますし、周りの人たち、もっと言えば全人類のためにも、最善であると思います。