僕は今、精神病の症状である幻聴と妄想の再発より恐れているものがあります。それは虚無です。僕は眠れない夜はいつも布団の中で僕が死んだら僕という存在はこのいとおしい世界から永遠に無くなってしまうのかなとか考えてしまいます。そうすると僕の精神は決まって不安定になりとても苦しくなります。窓を開け、部屋の外の夜の音と空気に触れると少しは和らぐのですが、一時しのぎに過ぎません。
僕の現在の一番の関心は社会復帰といったものではなく、この虚無を克服することにあります。僕が今、一番欲しいものは生きる情熱です。
本当の死つまり虚無に一対一で直面しても(というか虚無と直面する時はいつも一対一なのですが)神(光、希望)を本当に信じられている人は精神病にならないと思います。信じられている間は信仰が虚無を突き抜けているからです。そしてイエスはその代表格だと思います。僕はクリスチャンではありませんがイエスの生き方にはとても惹かれます。
この世的な価値観を持った人から見たら他人のために死ぬ人は狂っているとしか映らないでしょうが僕はイエスほど人の子として最高の生き方ができた人はいないと思っています。
なぜならイエスは虚無と直面しても逃げることもごまかすことも絶望することもなかったからです。彼はこの世的な価値観では一番大切と思われている自らの命を他人のために放棄することによって(なんて崇高な行為でしょう!僕にはできない)肉体の死を絶望から希望に変化させ結果的に虚無を乗り越えてしまったように見えます。
精神病は虚無に直面した者がそれから逃れようとする試みによって引き起こされるというのが僕の持論です。僕は辛い現実を認めなくて済むようにする自我の無意識の試みは妄想を生み出し、惨めな自分を自分で無くしてしまおうという自我の無意識の試みは幻聴を生み出すのだと思っています。
なぜ自我がそんなことをするのかというと、おそらくそうでもしなければ虚無に押しつぶされてしまいそうになるからでしょう。
つまり精神病者は救われていないので虚無から自分自身の力を頼って逃れようとしているのです。この点がイエスと精神病者を分けるのだと思います。精神病者には希望すなわち神に対する確信はありません。
それなら精神病にならないためには神を信じればいいのかと問われれば、そうであると答えます。しかし神を信じるということは簡単なようであってとても難しいのです。試しに行ってみてください。
人が神を信じられるようになるためには、まず人が救われていなければなりません。人は、神を信じるから救われるのではなく、救われているから神を信じられるものだからです。
ではどうすれば救われるのでしょうか。凡人である我々にとって、それは自分が愛すべき人に愛されることです。一人でもいいからそういう人がいればその人は救われます。神の国は愛ある人と人との間にあるとはそういうことだと思います。
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