プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

これはおれにも当てはまるのか?

2018年05月03日 09時57分31秒 | 日記

松本卓也著『享楽社会論 現代ラカン派の展開』より抜粋。

p.152

よく知られていることだが、フロイトのメランコリーには、深い苦痛に満ちた不機嫌、外的世界への関心の撤去、愛情能力の喪失、制止に加えて、自尊感情の引き下げがみられる。最後のもの(自尊感情の引き下げ)は喪ではみられない特徴であり、この特徴の有無によって喪とメランコリーは区別される。この自尊感情の引き下げとは、メランコリー患者が「みずからに対する非難と悪口雑言」を体験し、さらには「処罰を妄想的にwahnhaften期待する」ようになることを指す。これは単なる罪責感にとどまらず、もはや罪責妄想と呼ぶべきものを含んでいる。フロイトのメランコリー論は、気分や感情の障害としての「うつ病論」というよりも、むしろ「自責する病」としてのメランコリーについての論考であると言ってもよい。

くわえて、フロイトはメランコリー患者の自責を、人間の無意識についてのある種の真理として捉えている。「精神病では、無意識が顕わになっているà ciel ouvert」という公式、つまり「神経症では偽装の下で現れるものが、精神病ではむき出しになっている」というモチーフは、フロイトやラカンの論考において何度も現れるのである。

実際、精神病の症例を取り扱う場合、(精神分析的ではない)精神医学的な臨床においても、きわめて精神分析的な事柄を容易に聞き取ることができる。たとえば、私たちの症例のある高齢の妄想性うつ病の女性患者は、熱心に面倒をみていた孫が進学のために上京した後から、「自分には価値がない、何もすることができない」と述べるようになった。どうしてそう思うのかと聞くと、「ロキソニン(鎮痛薬の一種)をそんなに飲むなんて最低だ」という声(幻聴)が聞こえてくるのだ、と患者は答えた。しかし、患者本人はロキソニンを内服していなかった。そのことを家族に問うてみると、ロキソニンを頻用していたのは実際には患者の孫であったことがわかった。「自己告訴のうちの最も強いものは、しばしば患者本人にはほとんど当てはまらず、むしろ、わずかな変更を加えさえすれば、患者が愛している、あるいはかつて愛した、あるいは愛しているはずの、別の人物に当てはめることができる」というフロイトの一節――すなわち、メランコリーにおける愛する対象との同一化――は、このように精神医学の日常臨床にあらわれてくるのである。

 

だとしたら、おれはどうすればいいのだろう?

そいつを憎めばいいのか?

いや、無関心になればいいのか?

でも、どうやって?

家に引きこもっても聞こえてくるのだ。

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