松田雄馬著『人工知能はなぜ椅子に座れないのか――情報化社会における「知」と「生命」』から一部抜粋。
P.122
世界を認識する上での身体の役割
世界の「動き」を見る「運動視」について考えていくと、私たちは、単に目で世界を見ているのではなく、どうも、身体そのものを使って、世界を見ているのではないかということに気づきます。それを裏付ける実験が、一九六〇年代にアメリカで行われました。一九六三年、アメリカで、二匹の子猫を使った、通称「ゴンドラ猫」と呼ばれる有名な実験が、ヘルドとハインという二人の学者によって行われました。歩けるようになったばかりの二匹の子猫(生後八~一二週)が、一日三時間、図のような装置の中に入れられ、互いに繋がれている状態にあります。片方の猫は自分で動き回ることができますが、もう片方の猫はゴンドラの中に入れられていて、自分で動き回ることができません。ゴンドラは、自分で動ける方の猫の動きと連動し、点対称の動きをするような仕掛けになっています。つまり、二匹の猫の見ている景色は全く同じであり、唯一の違いは、自分の意思で動いているかどうかだけでした。さて、この唯一の違いが、二匹に何をもたらしたのでしょうか。
この装置から解放された二匹の猫に一連の視覚テストを行ってみると、驚くべき事実が明らかになりました。自らの意思で動き回ることのできる「能動的な」猫は、この装置から解放された後であっても、視覚が正常に機能しました。つまり、「世界を知覚する」ことに支障をきたすことはありませんでした。一方、ゴンドラに入れられ、自らの意思で動くことを禁じられた「受動的な」猫は、見ようとする行為自体を行えたものの、視覚刺激に対して反応することができませんでした。受動的な「ゴンドラ猫」は、空間認識能力が正常に機能せず、ものにぶつかったり、障害物を避けることができなかったり、リーチも不適切であったり、という状態だったのです。
ゴンドラ猫の実験は、私たち生物が、視覚情報によって空間を認識する能力(どこにものがあるかを判断する能力)を身に付けるには、視覚情報を得るだけでは不十分であり、能動的な運動を必要とする、ということを、私たちに教えてくれます。視覚と運動という、独立しているように見える二つの機能は、互いに切り離すことができないだけではありません。ゴンドラ猫の実験は、「世界は、自ら能動的に働きかけを行うことによってはじめて認識できる」ということを教えてくれます。
世界は、世界を認識しようとする主体である私たち生物の一個体一個体が、自らの身体を使って、能動的に関わることによって初めて認識することができます。そして、一人一人異なる身体を持つ私たちの認識する世界は、厳密に言うと、まったく同じというわけではありません。世界を認識するということは、世界と自分の身体との関係を認識するということであり、世界を「主観的」に理解するということでもあるのです。実は、これが、時として、「現実と異なる」認識を引き起こす原因になるということが知られています。「錯視(錯覚)」という現象は、このようなプロセスから生じると言われており、これまで様々な「錯視」が発見されてきました。ここからは、「錯視」を通して、身体の役割についての理解を、更に深めていきましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます