マルクスが述べたように確かに宗教は阿片かもしれないが、だからといって仮に世俗的な社会改革を行っても民衆の欲望にはキリがないので、そのうち不平不満が出てくるだろうな。
悟りが悩みのない境地だからといって悩むのをやめれば悟れるわけではないよね。
それでは倒錯的と言われても仕方ないだろう。
だいたい悟りとはあくまで理解したからもたらされるのであって無関心を装うことではないと思うよ。
むしろそれは他者について関心を保ちつつ比べず欲しがらず居られる状態のことではないかな。
だからありのままを受け入れろと言うのだろう。