プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

やる気スイッチ

2014年03月20日 14時59分26秒 | インポート

子どもの体の表面についた「やる気スイッチ」なるものを押そうという学習塾のコマーシャルがあるが、危ない、危ない。
人間の背中辺りにキーボードを取り付けて外部から様々な情報を入力できたらどうかという発想につながるのではないか・・・と危惧している。
それは、美的な感覚に反するからというよりも、人間をコンピュータと同一視してはいかんだろ~という理由で、反対である。
しかし、実際不思議なことは、物理的な作用を加えずとも、子どもが言葉を使えるようになることである。
子どもは白紙の状態で生まれてくるのではないようだ。
うん、そうだ。
みんな「こころ(精神)」なるものを持って生まれてくるのだ。
ああ、なんてすごいことなんだ!

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リアリティは事実に先立つ

2014年03月20日 07時07分02秒 | インポート

 

 下條信輔著『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命』より引用。

 

 心に関するかぎり、とりわけ心の「発生」の現場に関するかぎり、人と人の間の認知のリアリティが、本当は客観的な「事実」に先立つのではないか、と私は言いたい。ここで「本当は」というのは、「本当に実在するのは何か」という問に対する答えとしてではなくて、おおげさにいえば、今もっとも切実に要請されているものは……という意味で使っているつもりである。

 

 赤ちゃんを目の前にしたときのおかあさんの態度には、はっきりした特徴がある。口を大きく動かし、頭をうなずくように振り、目を見ひらき、おおげさな身ぶりで赤ちゃんに語りかける(空間的な誇張)。また、ことばやしぐさが、スローモーションをかけたように、ゆっくりになる(時間的な誇張)。笑い、驚き、眉をしかめる(情緒的な誇張)。

 

 このようなおかあさんの態度が、どこか芝居の演技に似ているのは、偶然ではない。おかあさんは、基本的には「想像的なひとりがたり」(D・スターン)をしているのだ。

 

 赤ちゃんの現在あるすがたに刺激され、未来に向かって語りかけることによって、おかあさんは自分のイメージから、赤ちゃんをつむぎ上げようとする。そのようにして、赤ちゃんとおかあさんの自己実現が成し遂げられていく。

 

 くり返しになってしまうけれども、赤ちゃんはあくまでも未来形の存在である。だから心の発生の現場においては、その特有の自己達成予言的なダイナミクスのために、対人認知のリアリティが、客観的「事実」に先立つのだ。

 

 う~ん。

 

 この記述を読んでなぜか旧約聖書の登場人物モーセにその名を訊かれた神がどう答えたかという物語を思い出しました。

 

 EHYH・AShR・EHYH(エヒイェー・アシェル・エヒイェー)と答えたのですが、「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」となるそうです。

 

 ヘブライ語には〈過去・現在・未来〉の三時制がなく、完了形と未完了形の二つの「相」に分かれるだけだそうです。

 

エヒイェーは英語のbe動詞に当たり、活用の相は一人称単数・未完了形だそうです。

 

未完了形は、まだ完了していない行為、くり返す行為、継続する行為の始まり、さらに願望、可能、命令の意味にも使用されるそうです。

 

アシェルは関係代名詞、全文を通して意訳するとこうなるそうです。

 

「わたしは今はいない。だがいつか出てくるだろう、わたしがあろうと望んだ時に。あるであろう者――それがわたしの名」

 

「これって人間の心の発達にも当てはまるのでは?」と僕などは思ってしまうのです。

 

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自分の心と他人の心

2014年03月20日 07時03分55秒 | インポート

 

 下條信輔著『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命』より引用。

 

 「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な寸言は、もともとは哲学者デカルトが、神の存在を証明するために使ったロジックだそうである。

 

 そのようなむずかしい理屈は別としても、「自分の存在について疑いをいだけるという事実それ自体からして、自分(の心)の存在には疑いの余地がない」という議論は、わたしたち現代人にとっても、それなりに説得力がある。

 

 ただし、これはあくまでも自分の心についての話であり、他人の心となると話はまったく別になる。「相手(の心)を買いかぶらない」還元主義の考え方は、「心」などという目に見えない、正体不明のものをなるべく無視して、脳や神経の生理的な活動や、条件反射などに置きかえて考えようとする。

 

 この還元主義の傾向は、今日、専門家だけではなくふつうの人びとの常識にも、科学的でモダンな考えとして、かなり浸透(あるいは汚染?)しているらしい。それは、たとえばこのごろの「早期教育」ブームの中で、くり返し登場してくるキャッチフレーズをみていても、よくわかる。――「天才をプログラムする」、「右脳教育」、「脳をきたえる」等々。

 

 少し理屈っぽくいえば、他人の心についてのこの疑似科学的な還元論の風潮に押しまくられて、自分の心についての確信に満ちた考えは疎外され、矮小化されて、「心」のイメージの片隅に追いやられてしまっているというのが、今日の状況かも知れない。

 

 ここで何よりも困るのは、「自分の心」と「他人の脳」という、このふたつの極端な立場のどちらをとっても、自分の心と他人の心との根本的なつながりが見えてこないということである。ところが、この本をここまで読んでこられた読者ならもうおわかりだろうと思うのだが、赤ちゃんの心の発生の現場も、まさにこのつながりの生まれる地点にあるのだ。

 

 このような理由から、新しい心の発生学は、時代の人間観=「心」のイメージに変更をせまる。その新しいイメージをわかりやすくするために、表情(相貌)の認知の例を考えてみよう。

 

 う~ん。

 

「われ」とか「思う」とか「在る」などという言葉を使うためには、まず他人からそれらの意味を学ばなくてはならないのだったなあ・・・。

 

 一人では人間にはなれないところに真実があるのだろうなあ・・・。

 

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