万次郎が米国本土に連れていかれたのは西海岸ではなく、東海岸沿いの小さ漁港でした。フェアヘブン市内に残された万次郎観光施設は30分ほどで回れる周遊観光バスが休日の土日に運行されておりました。なかでも、万次郎を人として大きく育ててくれた学校の教育施設は往時を再現しておりました。
早速バスに乗り訪ねました。 少し早過ぎたのか誰もいない。 再現されたのは学校の教室の外装と内装でした。 教壇が教師と机の中心にあり、黒板が幅いっぱいにあった。 教師の机の上にはランプ、ペンなどが置いてあった。 傍には国旗の星条旗も眼についた。 教師の服装は茶系統の三つ揃いのスーツに身を固めていた。 教師は立派な白い顎鬚姿のお爺ちゃん・・・。仕事に邪魔にならないように可愛い女の子がひとり・・・お孫さんかな・・・。 いました。 ほかには誰もいない。
お互いに軽く朝の挨拶をかわした。 1の質問に5の丁寧な回答が返ってきた。
昨日のホイットフイルド船長の家の設備の説明と同じだ。 たまたま、歓迎食事会の時にとなりに座った方が、翌日、しかも説明員としてお会いできたことが幸運を呼んだ。 往時のベッドのスプリングは紐で作られた質素なものだったとか、マットを裏返ししなければ口頭では理解が出来ず、現実味がなく、見せられてこそ理解ができて強く記憶に残った。 今日も幸運に巡り会えたのだ。
こんな機会を逃す訳がない。手にはカメラとムービーがある。 質問者は一人しかいない。しかも、熱心な質問をしたがっている。 説明員にとっても説明冥利に尽きる。 克明に往時を偲び、演技をしながら説明をしてくれた。
万次郎が米国でThree Rsを学んだTheOldStoneSchool での往時を再現して呉れた。教室は万次郎が教育を受けた往時を再現されていた。教師も服装も時代考証されていた。生徒役もいる。当時の子どもたちに学ぶ環境に教師が気を使ったのはやはり、書くものと遊び(運動)だったようだ。
「教師は」:授業中、子供たちの机に埋め込んであるインク瓶の補充に気をつけていた。 特に、冬の寒い時期には鯨の油でインクが凍らない様に更に留意していた。 また、常にナイフを持参していて、生徒の子どもたちが使っている羽ペン先が太くなれば、削るのために常にナイフは携行しているのです。そう言って仕草で演技をしてくれた。
「生徒がよく遊んだ遊びは」:
#「ビー玉遊び」をしてくれました。 遊び方は生徒役を相手に昭和を想い起こすような遊びで実演してくれて実に良く分かった。
#「木輪に棒をあてる」と転がして遊ぶ。 遊び方は直径100cmぐらいのフラフープのような木輪を70cm程の棒を手にすると外にでるように言われた。 転がしてグランドを往復して見せて呉れた。(日本でも昔の自転車の輪っパでこんな遊びがあった)
いずれの遊びも、たまたま観客が誰もいなく克明に再現して呉れました。(動画あり,だが行方不明中) 余談になりますが、これらは全て日本でも同じ遊びがあった。不思議ですね。子供の世界ってどこも同じ…?
この他:ネクタイとサスペンダーを日本に紹介したのも万次郎とのようです。
市内に「捕鯨博物館」があり、因みに、館長夫人は日本人でした。鯨の歯で作る装飾品は貴重品だそうです。
知らないことを知る旅になりました。万次郎は思いもかけぬ海上遭難事故を踏み台として自分の人生を切り開いた男であった。中浜家は教育者の道を歩み、医師の道に辿りついたことを知った。
終わり
そのものを実演して・・一緒に学ばれた
貴重な体験でしたね、そこで得た素晴らしい
体験が日本の歴史や文化に少なからず
影響を与えて・・万次郎の功績の
大きさに改めて感心させられました
ありがとうございました。