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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

伏見桃山城へ登城

2014-09-02 22:52:34 | 城、城跡、歴史
伏見稲荷大社を後にして、伏見桃山城へ向かいました。

こちらは、平成15年までキャッスルランドとして、営業されていた施設。
現在では、運動公園として整備されております。

秀吉の”伏見城”はこの運動公園の敷地そばにあります。見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられています。2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4–5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれているようです。







通常は中へは入ることはできないようです、が.....このようなものを発見



9月7日(日曜日)”伏見・お城まつり”が開催されるようで、一階部分の一部が開放されるようです。
黄金の茶室が復元とか...。

行ってみたいが....。2週続けて....。



ちょっと、考え中!

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いざ鎌倉!最終日

2014-08-15 15:54:34 | 城、城跡、歴史
最終日の鎌倉、昨日の天気とは打って変わって
暑いくらいの日差しになりました。


宿泊先の海老名から、大船まで車で移動しそこから、JR横須賀線で鎌倉へ。

天気が良いこともあって、駅に到着時点では、レンタサイクルは全て出払っておりました。

どうするか、思案しているうちに、上手く2台帰ってきました。

さて、今日の目的地は、佐助神社周辺です。

とんでもない坂道を、電動でもなく、変速すらついていないママチャリで....。

これは徒歩で20分とは書いてあるものの、徒歩でなくて本当に良かった~。

佐助稲荷神社到着

こちらの神社の説明書きによると
 源頼朝がまだ伊豆蛭ヶ小島に配流中の身であったころ、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたという。
 のちに、鎌倉に武家政権を築き上げた頼朝は、「かくれ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけ、御家人畠山重忠に命じて社を建立させた。
 そのため「出世稲荷」とも呼ばれている
 建立時期の詳細は不明。建久年間(1190~1199年)と考えられている。
 「佐助」という名は、佐殿(すけどの)と呼ばれていた頼朝を助けたという意味があるという。


参道の鳥居


拝殿前


こちらは本殿

趣のある神社でした。

そののち、源氏山へ

こちらは、化粧坂にある切通を見に行った来ました。


本当に天然の要害です。

鎌倉の地が、周囲を山に囲まれ南は相模湾の広がる地形。
この切通を突破しないことには、鎌倉には攻め入れないようになっております。

のちに城でいう、”虎口”の役割です。

ちょっと攻めるには苦労しそう、その上切通の上からは弓で狙われるでしょうから、はたして何人が突破できるか??

うまく地形を利用した、防御策です。

さて、ここ鎌倉に来てから、山の中でこんな鳴き声が



岡山では聞いたことが私自身ありませんが、”蜩(ひぐらし)”です。

気候や気温なんかによって分布しているところが違うのでしょうね。

”蜩”鳴き声を聞きながら、源氏山を散策しました。

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いざ、鎌倉!2日目

2014-08-14 21:46:53 | 城、城跡、歴史
昨日から、鎌倉へ来ております。
天気は、相変わらずの曇り空。

まず、目指したのは、鶴岡八幡宮。


私、初めての鎌倉です。



本宮へ向かう、石段横には平成22年の3月に倒伏した、銀杏の木が。
それでも、根元から、新しい枝を伸ばしておりました。

そのあとは、江の電に乗って、沿線を散策。
そのあたりの内容は、また後日。


明日は、鎌倉を自転車で廻る予定です。
天気は、どうかな?

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2014-07-31 00:35:03 | 城、城跡、歴史
今年は天気にも恵まれて、梅干しを作れました。



昨年は、梅干しの最中にがぎっくり腰をやったり、
3日干す最終日、が、昼間に居眠ったすきに、とか、いろいろありましたが、

今年は本当に何事もなく、無事に自家製”梅干し”ができました。

ちなみに、夜干し中の梅を一つ頂いてみると....。



かなり攻撃的な”すっぱさ”が、しかし香りは本当に良いのです。

ところで、昨日7月30日は、”梅干しの日”だそうでして、

梅干し食べれば難(7)が去る(30)。この古来の言い伝えを語呂にあわせて、和歌山県みなべ町の東農園が7月30日を「梅干の日」と制定した。

今から約1千年前に遣唐使の小野妹子によって中国から日本に伝えられた梅は、「食べ物・水・血」の三毒を断つ果実と言われ、昔の人は干した梅を薬として利用し、旅先で熱病や風土病などの病気にかからないように持ち歩いたという。世界で最も早くまとめられた6世紀発行の農業専門書「斉民要術」にも、梅干の作り方が記されている。

ちなみに、東農園とは、天保五年創業(1834年)の梅干製造の会社だそうです。

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森忠政公命日

2014-07-07 22:47:46 | 城、城跡、歴史
本日7月7日は、森忠政公の命日です。
昨年は、日曜日と重なり、墓所のある、津山・本源禅寺に伺いました。


鶴山公園(津山城跡)の登城入口に鎮座する、”森忠正公”像

生年: 元亀1 (1570)
没年: 寛永11.7.7(1634.7.31)
安土桃山時代の武将,江戸時代前期の大名。可成の6男。母は林通安の娘,妙向尼。幼名千丸。
豊臣秀吉に仕える。天正12(1584)年兄長可の遺領美濃国(岐阜県)金山城7万石を継ぐ。同15年2月6日従四位下侍従に叙任,羽柴姓を授けられ,文禄1(1592)年には肥前名護屋城の警護に当たる。

秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年2月,信濃更科・水内・埴科・高井4郡に移封,海津城主となり13万7500石を領した。
同年の関ケ原の戦では徳川方東軍に属し所領を安堵される。
同8年美作津山に移封,藩祖となり18万6000石余を領す。3代将軍徳川家光の上洛に際し京都に赴くが,その際,食事が原因で急死。葬地は京都大徳寺三玄院。


こちらが、本源禅寺本堂


霊廟、通常は解放されていないが、7月一日より、命日の7日までは一般公開されています。
ここには、森三兄弟の位牌が安置。
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本日の大河は、高松城水攻め。

2014-07-06 18:20:39 | 城、城跡、歴史
本日の大河”軍師官兵衛”は高松城水攻めです。
前半の大きな山場が4週にわたって展開されるようです。


毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせる。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定した。低湿地にある沼城の利点を逆手に取った、まさに奇策であった。

秀吉は即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命された。

堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して、高松城は孤島と化してしまった。
堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視した。
一方、城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気も低下。
城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。

毛利輝元は、5月21日になって猿掛城に輝元の本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景が着陣した。しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和を決意する。

それに関連して、こんな画像を見つけました。


これは以前、岡山県立図書館の企画展で見たような記憶があります。

古川古松軒(ふるかわこうしょうけん)の自筆である。寛政3年(1791)3月に描かれたもので、「黄薇山人古川辰図」
朱印と黄印により、羽柴勢と毛利勢を色分けしている。

もう一つ、こちらは東京都立中央図書館所蔵の赤松之城水責之図

高松城を赤松之城としている。



左手の櫓の上には、秀吉の千成瓢箪が見られるので間違いなく、高松之城水攻めです。

そして現在、高松城址の資料館には、水攻めのジオラマも展示されています。



旧暦では今日は6月10日。
本能寺の変は1週間前に起こったわけですが、その当時も今日のように雨が降っていたのでしょうか?

秀吉軍は6月10日朝には明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。
明智光秀の軍は久我(京都市伏見区)付近に着陣したとの記載があります。

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白鷺城に登城す

2014-06-29 19:59:56 | 城、城跡、歴史
昼前に出発して、お隣の兵庫県に行ってきました。

梅雨の中休みということもあり、多くの人が来ておりました。

今年は特に大河の関係で賑やかです。

私めも、いざ白鷺城に登城いたしました。

長らく続いていた平成の大修理も足場撤去のみとなり、姿を現した天守閣。



一部では、白すぎ城などとも言われておるそうですが、これが本来の姿だったのかもしれません。
まさしく、白鷺が羽を伸ばしたかのような姿です。

「やっぱり、この城はええな~」とつくづく思ってしまうのです。

現在は、乾曲輪までしか登城できません。



ここから先は入れません。

来年の3月末には、本丸、天守閣とも登城が可能ということです。

今、りの一渡櫓では”官兵衛の歴史館”を開催中。現在は2期目。



3期に分けて、本山一城氏のコレクションを展示しておりました。



母里太兵衛友信の兜(釘抜紋)
槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人。
播磨国妻鹿の国人曽我一信(そが かずのぶ)の子として誕生。弟に野村祐勝(のむら すけかつ)がいる。妻は大友宗麟の娘。父・一信は播磨国で勢力を持っていた小寺氏に仕え、黒田職隆の与力的な立場にあったと伝えられる。そのため友信も永禄12年(1569年)、職隆の子・黒田孝高(如水)に出仕した。青山・土器山の戦いにて、奮戦の末一族24人(母里小兵衛・武兵衛ら)が戦死した母里家が絶えるのを惜しんだ孝高により、曽我一信と母里氏の女との間の子であったことから母里姓を与えられ、母里太兵衛となった。




栗山四郎右衛門利安の兜 (丸に三柏)

この栗山四朗右衛門利安は、黒田氏の筆頭家老で、黒田二十四騎、黒田八虎の1人、有岡城の牢から官兵衛を救出した一人だそうです。

その他、官兵衛、長政の甲冑なども展示、いずれも複製ですが。



その後ろに並ぶ甲冑は、姫路城の中から出てきた本歌の甲冑だそうです。

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林原美術館でとんでもない資料が!!

2014-06-23 22:19:53 | 城、城跡、歴史
今日、夕方の岡山版のNHKニュースでこのような報道が。

長宗我部元親の手紙発見 本能寺の変直前、信長に恭順の姿勢

戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、
所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日発表。

本能寺の変については諸説いろいろあり、歴史上の謎とされてきましたが、これで一気に「四国説」がクローズアップされそうです。




これは、 天正十年一月十一日に斎藤利三が、元親の義父石谷光政に宛てた手紙。
信長の方針転換に納得しない元親が軽はずみな行動に出ないように光政に依頼する内容のもの。
元々は、天正3年(1575)、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、しかし、天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。
これに元親は承知しなかったようで、このときに利三が出した書状です。

ここまではよく知られていた話なのですが、今回本能寺の変10日前(天正十年五月二十一日)に元親から利三宛に送られた書状が発見されました。



内容は、信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、
甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。

しかしながら、5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。
この2通の書状のやりとりで、本能寺の変直前の斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動が明らかに。
今後は、本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状として本資料が取り上げられ、さらに研究が進んでいくと思われます。

これらの資料は今後以下のところで一般公開されるようです。

【今後の展示スケジュール】
(1)林原美術館(岡山県岡山市北区丸の内2-7-15 ℡086-223-1733)
・開館50周年記念特別展「武士のダンディズム」(平成26年7月19日~9月15日)で6点。
・開館50周年記念特別展「林原美術館の名宝 第一部 絵画・書跡・能装束」(仮)(平成26年9月30日~11月16日)で6点。

(2)高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市岡豊町八幡1099-1 ℡088-862-2211)
・特別展「長宗我部氏と宇喜多氏」(平成26年10月11日~12月7日)で4点。

(3)岡山県立博物館(岡山県岡山市北区後楽園1-5 ℡086-272-1149)
・特別展「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」(平成27年1月16日~2月15日)で8点。

これで一気に本能寺に変に至った謎が解明されるかもしれません。

それにしてもすごい資料が出てきたものです。


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猫の町、坂の町 ~大可島城跡~

2014-06-13 19:57:12 | 城、城跡、歴史
鞆の浦、ここは尾道にも雰囲気が似ているそんな町のような気がします。
そんな町に似合うのが、”ねこ”

ここ鞆の浦でも多くの”ねこ”に出会いました。というか気が付けば囲まれてました。

鞆の浦入り江の先の、大可島城跡。
南北朝時代。康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦で、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は北朝方の攻撃により全滅したそうです。

戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に海賊(村上水軍)の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され本拠は大可島城に置かれました。



現在は、圓福寺というお寺がそこにあります。真言宗大覚寺派の寺院。山号は南林山。
その本堂裏手から見た、瀬戸内海。目の前には弁天島が見えます。


きっと村上亮康もこの景色を眺めたことでしょう。

そんな、大可島城跡は猫のたまり場に


石段を登り切った先では...。(決して討死している訳でなく、お昼寝中!)


ここにも


草むらの中にも


何やら不思議そうに....。

この日は予報よりもかなり暑かったせいもあり、日陰でまったりと...。

猫の町、坂の町を堪能しました。

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備後安国寺

2014-06-10 19:49:59 | 城、城跡、歴史
鞆の浦散策の最初の場所は、ホテルから一番近かった”備後安国寺”へ

歴史が好きな方には”ピン”とくる事かと思いますが、毛利氏の政治顧問であった、安国寺恵瓊が天正七年に荒廃した寺を毛利輝元を大壇越に安国寺恵瓊が竣工した寺です。

大河では、宇喜多直家とともに、かなりアクの強い人物に描かれておりますが....。



現在残っている釈迦堂は重要文化財で、 鎌倉時代、文永十年(1273)に金宝寺の仏殿として建立。


その翌年、この仏殿に阿弥陀三尊像(重文)が安置されました。その後、安国寺恵瓊などにより十六世紀末に、かなりの修理がなされました。
しかしながら、鎌倉時代の禅宗様建築の特徴をよく残しています。



この釈迦堂の後ろには、本堂の跡が。





そしてその横には、安国寺恵瓊が修築したといわれている枯山水が。
慶長四年(1599)に安国寺恵瓊が修築し、その時、蘇鉄を植えたと伝承されています。中世の枯山水は全国的にみても9ヶ所しかなく貴重な庭園の一つ。
こうした枯山水は象徴化・抽象化した禅宗文化の表れで、室町時代禅宗寺院に広まり、「禅の庭」とも呼ばれているようです。



鞆の浦は歴史の中にたびたび登場する場所のようで、平安時代から幕末まで有名な歴史上の人物が訪れているようです。
街を散策すると、「え~っ、こんな人も」って驚くような街です。

次は、山中鹿之助首塚へ



鹿介は、幼名甚次郎鹿之介と云い、天文14年(1545)出雲国富田庄(現島根県広瀬町)に生れる。
尼子氏の重臣で、名は幸盛。尼子晴久・勝久に仕えて、尼子十勇士の一人とされ、少年時代には「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った話は有名。

尼子氏はのちに毛利家との中国覇戦に敗れ衰退、再興をかけ天正6年(1578)播州上月城(現兵庫県上月町)で戦いに敗れ勝久は自害した。
鹿介は毛利に降伏し、毛利輝元の本陣である松山城へ護送される途中の天正6年7月17日阿井の渡し(現落合町阿部)で河村新左衛門・福間彦右衛門によって暗殺された。鹿介34歳。

その首は、輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊牛和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み瓶に収めて埋葬し、墓碑を建立。
位牌は、曹洞宗観泉寺に祭られていて「幸盛院鹿山中的居士霊位」とある。


ちなみに散策の足は、レンタサイクルです。

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