マンホールカードを頂く事と、未収集のマンホールを見つける事。後は有名な寺社を訪ねるのがメインの高石市訪問ですが、他にも「こんな場所もあるんだ!」と思わず立ち止まってしまう見所が沢山ありました。
まずは高石市羽衣「南海電鉄 :伽羅橋駅」の駅名の由来となった「伽羅(きゃら)橋」。
もとは紀州街道の芦田川に架かっていた橋梁で、元治2年(1865)に木製から石造りの橋に付け替え。その後、昭和63年(1988)に堺泉北臨海コンビナートにある高砂公園に移設されました。
勾欄・床板・主桁から橋脚まで、花崗岩の方形切り石を組み、緩いアーチを描く桁橋は、国登録有形文化財となっています。また橋取り付き部の石垣横には、ここに保存展示された石碑等の来歴が紹介されています。
「狛犬・和泉砂岩制で高さ53cm。高石市総合ライフケアセンターの工事中の1999年に出土。江戸末から明治時代のもと思われる。」
「小高石橋標柱・御影石製 高さ90cm」「こたか石はし標柱・御影石製 高さ90cm 紀州街道の王子川に江戸時代末の慶応年間に架けられた小高石橋の物。1962年の王子川改修工事によりコンクリート製の橋にかけ替えられた。」
「高石街道標柱 御影石製 高さ80cm 前面には高石街道従是 東鳥石:西高石村所属と刻まれている。」
「右 えばら道標柱 御影石製 高さ80cm 紀州街道の千代田一丁目二番地付近に建てられていた。はじめに梵字が刻まれ堺家原寺方面に行く道を示す。江戸時代の物である。」
こうした形できちんと保存されているのを見ると、無性に嬉しくなってしまう私。土の中深くに埋められていたもの、草深き野辺の隅に忘れ去られていたもの・・それらは確かにこの町の歴史を伝える「語り部」たちなのです。
「南海電鉄:高師浜駅」。駅舎は大正八年(1919)の開業当初のもので、美しいステンドグラスのある貴重な近代建築です。
名にし負う「高師浜」。かっては白砂青松の景勝地として「万葉集」や詩歌にも歌われ、また東洋一の海水浴場として知られた高師浜。青くきらめく波間を飛ぶ千鳥の羽音さえも聞こえるような情景が、日差しを浴びて輝きを増します。
「浜寺俘虜収容所跡」。明治37年(1904)~明治38年。日露戦争の際に海岸部につくられたロシア兵俘虜収容所跡の碑。建物はロシア兵俘虜帰国後、第16師団宿舎として使用されました。収容所の建物が師団宿舎として転用されるその意味を、AだBだと賢ら顔に口にする人は学んでほしい。
「高志匠之碑」高石北村の字大工村(現:高師浜一丁目付近)は、『行基』の社会事業に従事した工人たちの子孫の集落と言われています。この一帯は宮大工をはじめとする技術者の村で、明治維新頃まで京都御所の造営や修築に携わっていました。工人が内匠(たくみ)寮に属していたことから、現在の町会でいう高石八区は「匠」と呼ばれています。またこの地は「行基誕生の地」とも伝えられています。
「行基千躰地蔵尊」の碑と「地蔵堂」
綺麗な赤い前垂れをまとわれて、静かに座しておられる大小さまざまなお地蔵様。
高石市羽衣の一画に右から左に書かれたコンクリート造りの建物を見かけました。「羽衣喞筒(そくとう)格納庫」。喞筒とは消防用消火ポンプの当て字ですが、物言わぬ建物も、実はしっかりと歴史を物語っているのです。
のんびりと歩いてゆけば、きっと思いがけない歴史や素敵に巡り合える筈。一期一会の素敵を訪ねて歩く旅に、特別な「何か」なんてきっと必要ないのです。
車で通り過ぎるときにちらっと見えた不思議な光景。運よくカメラに収まってくれたのは、カウンター席に座って料理を待つ猫のカップル?!唯々、可愛い~~~~(⌒∇⌒)
訪問日:2017年4月24日