「五個荘の町を歩きたい」・・と思ったのは、私たちが京都に引っ越して間もない頃の事。お正月休みを利用して出掛けた明治村、翌日は二見ヶ浦に行く予定が時ならぬ大雪で断念。しかもチェーン装備の無い我が家の車では雪の高速に乗れず、ひたすら下道を走って・・その帰路に天秤棒を担いだ近江商人の銅像を見たのが切っ掛け。 それから8年を経てですから、願いが叶うまで随分と時間がかかりました。
近江商人発祥地の一つとして知られる「五個荘町」。古来より交通の要衝として、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、その利点を活かし、江戸時代後期から昭和初期にかけて多くの商人を輩出してきました。近江尚商会発行の「近江商人」には、「神崎郡の旭村大字山本と南五個荘村大字川並及金堂は、もとより田舎の小部落なれど、ひとたび足を入るもの誰か豪家櫛比の状に驚かん」とあり、富裕な家が建ち並んでいた様子が記されています。とりわけ金堂地区は保存活動が盛んであり、1998年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
その佇まいの静謐さゆえに、映画のロケなどにも多く使われ、知っている人なら「あ、ここっ!」と指さす場所がたくさん登場する金堂の町並み。2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で登場したのは、この路地あたり?・・電線が沢山あるから違うかな?
滋賀県の近江地方には、いわゆる「近江商人の里」と呼ばれる地域が、近江八幡・日野などに残されています。そのどれを見ても「故郷に錦を飾る」と言った言葉が実感できる佇まい。それは、己の身一つ、天秤棒一つでこれほどの財をなした・・・いわば立身出世の見本のような人たちが、故郷に対して、自分がいかに成功しどれほどの財を築いたかを披露する場だったのかもしれません。
そうした豪壮な建物を見た人たちは、自分も負けるものかと天秤棒を担いで、山を越えて商いに行く。そうやって故郷を後にした人たちの誰かが成功し、財を成して故郷に帰り、お屋敷と呼ぶに相応しい建物を建てて錦を飾る・・・
故郷を捨てるのではなく、故郷に必ず帰ってくる! それは近江商人たちの信念のようなものかもしれない・・そんな事を思いながら路地を歩くのは、とても心が躍るような不思議な興奮を覚えます。
金堂の町中にひときわ高くそびえ立つ浄土真宗大谷派の古刹「弘誓寺」。表門は市指定文化財、鐘楼は登録有形文化財。本堂は宝暦5年(1755)、『高木作右衛門』によって建てられたもので、昭和六十二年に国の重要文化財に指定されています。
寺伝によれば『那須与一』の末孫、『愚咄坊(ぐとつぼう)』が正応5年(1292)に現在の寺号を受け、その後神崎郡躰光寺村に移り、天正9年(1581)に現在地に永住する事になったとあります。それにしても源平屋島の戦いの、あの『那須与一』の・・・末孫ですか・・・何だか凄い発見をした気分😲
「大城神社」の御旅所は金堂の馬場と呼ばれ、そこに正安2年と刻まれた五輪塔が据えられています。仏教では、空・風・火・水・地が万物構成の要素であり、これの変化で全てが生じるとして、これを五輪と呼び、それを象徴的にかたどったものが五輪塔であると伝えています。
赤い鳥居があるのは稲荷の社。ここはもと大和郡山藩の陣屋跡で、江戸時代には、大和郡山藩の陣屋がありました。今は陣屋は無く、お稲荷様が祀られています。
中の見学ができると言う事で訪ねた「近江商人屋敷:外村繁文学館」。彼の作品に関しては生憎と無知で、建物の外部をざっと見学させて頂いただけで終わりました。
屋敷内には、掘割に屋根をかけた「川戸」と呼ばれる一画があり、ここで炊事や洗いものをします。洗い物の際にこぼれた米粒などは魚の餌として利用され、ここで魚も飼われていたとか。とても合理的な工夫ですが、「川戸」の大切な役割には防火用水としての役目もあったそうです。
小さな路地の先にも、大きな神社仏閣の一角にも、素晴らしい発見の種は無数に転がっています。そして・・どんなに詳細に見たつもりでも、後になって見返せば見残した場所が一杯出てきます。悔しい思いは、そこがどんなに素敵な場所だったかの証拠であり、いつかまた・・の期待につながるのです。
訪問日:2008年7月26日
おはようございます!
今日も晴れました!
久々の晴れ間の札幌てす。
オーバーオール、可愛いですね!
年甲斐もなく・・と笑われそうですが😅
この時はバイクタンデムなので
楽な服装にしたのです
旦那さまのお身体はいかがですか?
楽しくお出かけなされたことを願います😊
どこかの観光地を訪ねるでもなく
名のある寺社に詣でるでもなく
高速を使ってSAめぐりと道の駅
ただそれだけですが
それでも心に残る時を過ごしてきました😊