高梁市内の町歩きを切り上げ、高梁市向町まで車で移動。高梁市内最後のお目当ては、明治37年(1904)に建築された木造二階建校舎「旧高梁尋常高等小学校本館」。
施工者は地元大工の『妹尾友太郎』。用材は臥牛山国有林のモミの大木を使用。無節で柾目の良材を入念に施工してあり、現在もほとんど狂いがない状態を保っています。1階は職員室・生徒控室として、2階の講堂は豪壮な二重折上格天井になっており、明治の代表的な学校建築として市重要文化財に指定されています。
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擬洋風建築の校舎は、現在「高梁市郷土資料館」として活用され、館内には江戸時代から昭和初期にかけての生活用具など3,000点が展示されています。
とりわけ私の大好きな木製の看板には、その字面だけで世相が推し量れるものもあり、非常に興味をそそられます。
改めて正面から・・・手前に空気を読まない方が写りこんでいるのは愛嬌と言う事で😆
小学校の校舎には絶対と言うほど欠かせない存在であった『二宮金次郎像』。ここの金次郎さん、どちらかと言うと中性的な雰囲気に見えますが、実際はそんなでも無く、多分にカメラの角度が見せる錯覚のようです。
何らかの理由でここに移された道標や石仏。「左ハ まつやま 右ハ む〇ノみち」と「双体地蔵仏板碑」
側には詳細が記された駒札もあったのに、ちゃんと画像に残しておけばよかったと、今頃になっての後悔。
資料館車寄せの右に立つ銅像は、幕末期の儒家で陽明学者でもあった『山田方谷』。備中松山藩の藩政改革や教育に尽くし、幕末の混乱期には藩主を隠居させる事で松山藩と領民を滅亡から救い、後に「備中聖人」と称された人物。
彼について語りだすと二時間くらいは優に要してしまうので、詳しく知りたい方は是非とも「山田方谷」でググってみてください。幕末史に名を残す様々な人物との関りなど・・幕末の歴史がさらに深く垣間見えてきます。
訪問日:2010年8月11日