1900年恐慌の後、世界的恐慌は、1907年に起きました。今回の切欠となったのはアメリカでした。アメリカでは、1906年秋頃より製鉄業で生産の低下が始まり、秋になり、それまでのニューヨークから資金が引上げられる季節になりそれまでニューヨーク取引所で行なわれていた投機が苦境に陥り、そこに於いて政府は、国庫金の放出と外国からの金の輸入を始めた。
しかし、これはイギリスが対応策を始め、
①金融手形の割引を制限する
②公定歩合を4%→5%→6%とし年末には6%になった。
③更にイングランド銀行はイギリスの銀行家等に警告し、金融手形の割引を止めなければ7%に引上げるとし、又他方、ドイツライヒスバンクは年末には割引歩合を7%にした。(メンデリソン)
そういった中、1907年春にはアメリカ証券市場の崩落が始まった。
日本でも1907年1月株式市場の崩落が始まり、”財閥系”企業、も”売り”に出て東京株式取引所は4日間で200円の暴落となった。(前掲 大島)
これについて、××物産の理事は”販路に窮し、生産過度に陥り”と延べ”将来の発達繁栄の基礎はこの時に造らるるものなり”としています。
しかしながら、小銀行では重役が事業を兼営しておりそれに資金を固定しているのも普通であり、かくて1907年2月頃より名古屋地方で支払い停止が起き金融、事業の動揺もおき始めた。東京でも一部支払い停止が起き、このとき以降1908年上半期まで全国的に小銀行の支払い停止、取付が続出した。
そういった中、市中金利が上昇し日銀も1907年12月には金利を引上げた。又、1907年初頭を始め金融の収縮も見られましたが、全国的に銀行等の動揺が広まる中救済活動に出ざるを得なかった。
”平素営業振不謹慎にして信用薄弱なる物は到底これを救済するに由なかりしも”としながら”本行に向かってこれ等の資金供給を求むるもの少なからず・・・これ等の事情在りしが為、一般商況の不振なりしに拘わらず、本行の貸出高は常に相当巨額に達し”としていますが、日銀券発行高等見るなら1908年春ごろより信用の急速な収縮が見られます。
其のほか各地で”救済運動”もおこなわれ、”実業同士会”等が作られ、国庫債権の償還が要望され一億円の償還が行なわれ、資金の逼迫している方面に便宜償還の道を開いて救済を行なった。
しかし全般的には、日清戦後の場合と同様に、”金融逼迫の原因は政府財政の膨張による圧迫にある”と言う非難が行なわれた。
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