紙屋さんブログ

土佐の自然を愛する親父です。

「丸紅」さんには、大変お世話になりました

2021年01月24日 16時31分48秒 | 日記
 今朝は何時も通り6時半起きでした。 雨です。 昨日の洗濯は辞めてもらって今日2日分を一緒にしました。 雨続きだと「コインランドリ」(歩いて直ぐの場所)の乾燥機にお世話になるのですが、二人所帯だと1日分では量が少ないのです。

 「丸紅」さんには、本当にお世話になりました。 就職した紙の代理店には大学卒が「3人」しか居なかったです(今は、大卒が普通の採用基準)。 
 営業に出た時には、3〜4社の引き継ぎ先以外得意先は無く、全て「新規開拓」でした。
 物の売・買は「仕入れ」で決まります。 伸ばそうと思えば・・・先ず「売れる商品」の仕入れなんです。
 競争の世界ですから「2大製紙メーカー」(其の系列店)の代理店にはなれなかったです。
 ですから、「総合商社」のドアを叩き・・・「与信」の、お許しを得てから欲しい商品のメーカー物を扱わさして頂くのです。 それが、私に取っては「丸紅」だったし「日綿實業」だったし、「日商岩井」だったのです。

 私は恵まれていましたです。 私の入った紙代理店は「薄物の紙」「段ボール・板紙」を得意とするメーカーの「直系」だったのですから・・・、取引き「限度額」と云って、仕入れ先からの売り渡し金額の上限「与信枠」が、”青天井”(制限無し)でした。 (バックに有る「メーカーの信用力」です)

 更に、私の会社には「大卒の営業」は二人だけだったのです。 「商社」の窓口は、皆さん一流大学卒でした。 商社廻りするスタフは、先輩も後輩も入れて「私一人」だったのです。 (お相手は、東大卒・京大卒・慶応・早稲田卒・関学卒・関大卒・・でした。 当時の紙業界は「三白景気」の最中で、国立一期校出身でも、中々入社出来なかった業界です)
 
 「高知大学卒」では、相手に合わせるにはコツがありました。 先ずは、土佐の田舎の「清流・四万十川源流地点」の「産湯」で育った人畜無害? の田舎者だ・・・との「自己紹介」。 「教育学部出身者」と云うレッテルだったのです。 

 「上から目線」と云う言葉が有りますが・・・、私の場合は「下からの目線」で入れたのです。 最初から最後迄、徹頭徹尾、頭は下げて「可愛がられる」事に終時しました。 (云い変えれば、お恵み頂戴です)

 今日の何故「丸紅さん」かと、云うと・・・「丸紅の新規採用」・「総合職」では、・・・24年迄に「女子」社員「50%」採用を目指すと云う物でした。 (良い考えです。頑張って欲しい物です)
 今の丸紅だと、社員「3300人」の内「女性」は「約1割り」で・・・管理職女性も「6、5%」しか居ないそうです。
 やりがいも、生き甲斐も出ますよ! だって、この世の中は女性が半分以上居る訳です。 「女性」から見た(男には思いも付かない) 新しい事業も、沢山出て来る筈です。

 今日の「東京都」の患者は「1000人」を割りました・・・「986人」だったです。 ただ、リスク大の65歳以上が「260人」と多いし・・・重症患者も・変わらずの「156人」でした。
 高知県は「5人」でした。 50歳代以下です。・・・3人が接触者で、感染経路不明は「2人」。 
 ですが・・・昨日の須崎の患者「70歳代・2名」は、山奥「梼原町」の「議員夫婦」だったのです。